嘘の表情

 嘘しか言わない狼少年が「今自分が言っていることは嘘だ」と自己言及(self reference)したとき、それは嘘なのか、と問われたら、どう答えたらいいのでしょうか。狼少年自身が自分は嘘つきだと表明していますから、その嘘が嘘だということになり、狼少年の言っていることは本当だということになってしまいます。つまり、この発言自体が嘘ということなら、狼少年は正直者ということになりますから、嘘しか言わないことに反してしまいます。これが有名な「クレタ島の嘘つき」問題です。自己言及のパラドクスやラッセルのパラドクスと並んで、20世紀の言語や論理についての哲学を大いに刺激したパラドクスということになっています。
 でも、このパラドクスの前提になっている「嘘しか言わない」、「いつも必ず嘘をつく」ことはそもそもできることなのでしょうか。嘘をつくことはとても人間的なことなのですが、「嘘しか言わない」となると、果たして人間業として可能なのでしょうか。嘘をつくとは眼前の出来事や風景をそのまま述べ、「…は~である」と報告するのとは違います。例えば、風景を表現した言明を否定し、正反対の言明を述べることが嘘をつくことですから、嘘は意識的、意図的に生み出されるものということになります。ですから、嘘をつく当人は知識や事実を知っていて、それらとは反対のこと、簡単には知識や事実の否定を正しいものであるかのように述べることになります。つまり、嘘をつくには当人はその嘘に関連する知識や事実を事前に知っている必要があります。嘘をつくには嘘でない真実を前もって知っていて、本当であるかのように演技しなければならないのです。これは並大抵の技ではありません。
 このように見てくると、言明が真か偽かを知っていないと、その言明の否定形が嘘であることを知ることができないことがわかります。嘘をつくには、巧みな騙しの演技の前に、前提となる言明の真偽を知っているという条件が満たされていなければならないのです。すると、「嘘しかつかない」ためには、すべての言明の真偽があらかじめわかっていなければなりません。そうでなければ、嘘しかつかないようには行為できません。これは全知の能力を要求していて、正に神の能力の一つが満たされなければならないことを意味しています。ですから、当然人間には不可能なのです。嘘しかつかない人間などどこにもいないのです。
 こうなるとクレタ島の嘘つきの話はとても陳腐で、人々を混乱に陥れるだけのレトリックに過ぎないと言えないことはありません。不可能な理想化によって「嘘しかつかない」という状況をつくり出しただけで、実際は神にしかできないことだったと言って一笑に付すことができてしまうのです。
 でも、本当にそうでしょうか。何が理想化されていたのかをより詳しく探ってみましょう。まず、普通の説明を再確認しておきましょう。クレタ人のAが、「クレタ人は嘘つきだ」と言いました。通常、議論されるのは、もしAの言った「クレタ人は嘘つきだ」ということが真であると仮定すると、Aはクレタ人であるので、Aの言っている「クレタ人は嘘つきだ」は嘘となり、クレタ人は嘘つきでないことになります。また、Aの言った「クレタ人は嘘つきだ」というのが偽であると仮定するとクレタ人は嘘つきでないことになり、Aはクレタ人なので嘘をついていないことになり、Aの言った「クレタ人は嘘つきだ」というのが真となり、これも仮定に矛盾します。ですから、Aの言った「クレタ人は嘘つきだ」というのは真でも偽でもないことになります。
 「すべての言明の真偽がわかっている」という暗黙の前提が「嘘しかつかない」ことの前提になっていたのですが、ここでの前提は「二値性の原理(principle of bivalence)」と呼ばれてきたものなのです。その原理の主張は「どんな言明も真理値をもち、真か偽かのいずれかである」というものです。この原理は存在論的な主張で、私たちの認識に関する原理ではありません。ですから、この原理が私たちの生活世界で常に成立しているかと問われれば、誰も成り立っていないと答える筈です。現実の世界には真か偽かわからない言明が山ほどあり、真偽のわかった言明より遥かに多いと多くの人は感じています。「知より無知の方が多い」と人は思って生活しています。では、なぜ二値性の原理が古典論理のシステムに関して成り立っているのでしょうか。私たちが言明の真理値を知ることとその言明の真理値が真か偽かのいずれかであることは別のことだと古典論理では考えています。それは私の背中が私には見えなくても、必ず存在していると私が考えることに似ています。実際、今私たちが論理と呼んでいるものはこの古典論理であり、そこでは二値性の原理が厳然と成り立っています。
 これを仮に「理想化」と呼ぶなら、他の分野にも数多く見られ、決して珍しいものではありません。例えば、幾何学でも点や線はその定義からして理想的な存在で、私たちの住む世界には実在できない性質をもったものです。サイズのない点、太さのない線はこの生活世界には実在できません(サイズのない点から、太さのない線がつくられ、さらに厚さのない面がつくられ、それらから図形がつくられているのが幾何学です)。でも、だからといって、ユークリッド幾何学が誤っている訳ではありません。多くの人が、存在できない筈の点や線について定理を証明し、作図し、その美しさに感銘を受けた筈です。それだけでなく、ユークリッド幾何学はこの生活世界で実際に大いに役立っているのです。
 同じように、「嘘しかつかない」ことがパラドクスを引き起こすのですが、それは理想的な世界でのことであって、この生活世界では「嘘をつく場合がある」ことしか成り立っていません。幾何学と物理学はほぼパラレルに成り立つと見做して多くの成果が上がってきたのですが、理想的でないこの世界では嘘はどのようなことになるのでしょうか。
 そこで、イソップ童話の「羊飼いと狼」の狼少年の言動がもたらすことを考えてみましょう。ここでは誰もパラドクスのことは夢にも考えず、二つの話は基本的に異なった分野の問題だと考えるのではないでしょうか。ここが幾何学と物理学の並列とは大変違っている点です。
 「嘘をつく」ことは意識的な心的働きによるもので、心が関わる態度とも言えるものです。「疑う」こともそのような態度の一つで、人が知識を獲得する上で重要な役割を果たしてきました。デカルトやヒュームが「懐疑」を重要な装置と捉え、意識や知識について哲学したことは有名な事実であり、ほとんどの人には周知の事柄です。一方、太宰治の「走れメロス」やイソップの狼少年の話も大抵の人が知っています。そして、これらの例は二つの異なる領域の事柄として、関連させることなく理解されてきました。二つは異なる領域の事柄だということを書き出してみれば、例えば次のようになります。

(1)個々の信念や言明の真偽を疑うこと(デカルト、懐疑)
(2)人や組織全体の信頼、信用を疑うこと(太宰、不信)

デカルトの方法的懐疑は知識論や認識論につながるを近代的な哲学の出発点になり、信頼や不信は人間社会の中の倫理や道徳に存在意義を与えるきっかけになりました。そして、知識と倫理は領域を異にする典型として位置づけられてきました。では、(1)と(2)の言明が違う領域のものだとすれば、その間にはどんな関係があるのでしょうか。知人が狼少年とは正反対にいつも真実しか言わない人だとすれば、その知人をあなたは信頼する筈です。逆に狼少年のようにいつも嘘をつく人であれば、その知人を信用しない筈です。二つの関係は、

(3)(1)がなければ、(2)もない、

であり、人や組織全体を疑うためにはその人や組織の個々の言明や言動を疑わなければなりません。二つの言明の間には(3)のような関係があるのです。
 「(1)がなければ、(2)もない」はそのまま(1)、(2)を代入すると、「個々の信念や言明の真偽を疑うこと(デカルト、懐疑)がなければ、人や組織全体の信頼、信用を疑うこと(太宰、不信)もない」となります。簡単にすれば、「個々の信念や言明の真偽を疑うことがなければ、人や組織全体の信頼、信用を疑うこともない」となり、この命題(=言明)を「展開」すれば、例えば、「Aさんの信念一つ一つを疑わなければ、Aさんへの信頼を疑うこともない」、「Aさんを信頼することは、Aさんのもつ信念を信じることである」といった言明が導出できます。
 この言明は知識を獲得する方法を述べているのではなく、知識を獲得する際の「信じる」、「疑う」という心的働きの動向について述べているのです。少々意欲的に述べれば、真なる言明を獲得するには信じるだけでなく疑うことが不可欠で、疑うことができればできるほど信じることができるようになり、信じることができればできるほど疑うことできるようになるのです。ですから、知識は「信じる」ことと「疑う」ことの間の暫しの安定状態の表現だと考えることができます。キザに表現すれば、これこそが知識のダイナミックな特徴だということになります。要は、「暫定的」であることが知識の本性だということです。
 疑うことと信じることは正反対の心的態度だと思われ、二つの間の関連など普通は考えもしません。しかし、疑うことができなければ信じることができず、信じることができなければ疑うこともできないという相補的な関係が背後に隠れているのです。信頼される信念は真でなければなりませんし、偽の信念は疑いのあるものです。信念の真偽が変わることによって、信頼される信念と疑いのある信念の地位はいつでも入れ替わることができます。それゆえ、古い誤りが是正され、新しい信念を採用して、人間関係や組織、制度を変えていくことができるのです。
 個々の信念や言明を疑うことが知識を学ぶ出発点だとすれば、人や組織を疑うために知識を学ぶことになります。友人や仲間を疑うために知識を学ぶというのは奇妙なことに思えますが、それは「人や組織を信頼するために知識を学ぶ」ことの別の表現に過ぎません。信頼するためにはその知識を信じるだけでなく、疑うことができなければなりません。信頼のためのメカニズムは疑うためのメカニズムと基本的には同じなのに、人は通常一方のみへの視点に偏向しがちです。人や組織を信頼したり、不信をもったりすることの基本にあるのは個々の信念や言明に対する真偽です。人を信頼するにはその人の日々の言動が情報としてなければ、納得できる判断をすることができません。組織の仕事や決定に対する信頼や自分の関わり方もすべて(1)から得られるものに依存しています。人や組織への信頼や不信という心的な態度は経験的な真偽の積み重ねの結果なのです。

 これまでのことをまとめるなら、神の国ではパラドクスを引き起こす嘘として登場するものが、人の国では信頼や不信の鍵を握る情報としての嘘として登場することになります。嘘を契機に、「既知性の原理」、「二値性の原理」、「倫理性の原理」と呼ぶことができる原理が垣間見え、それらが絡まり合うことによって、私たちの生活世界での言動が生まれ、それがぶつかり合うことを知り始める、といった風に理解されるのでしょう。