アウグスティヌス再考:時間を捉える(1)

 「時間とは何か」を考えようとすると、アウグスティヌスが必ず取り上げられる。彼の時間についての発想や理解の仕方が現代の私たちにも相通じるものがあるからである。アウグスティヌスが時間について現代的な考えをもっていたことは、次の二つのよく似た問いを比較すれば一目瞭然である。

神は世界をつくる「以前に」何をしていたか。
ビッグ・バン「以前に」何が起こったか。

最初の問いに対するアウグスティヌスの解答は、二番目の問いに対する現代の物理学者の解答に極めてよく似ている。時間は神が世界をつくる際、あるいはビッグ・バンで世界が生まれる際に始まったのであり、それ「以前に」というのはそもそも存在さえしない。だから、上の二つの問は意味をなさない。これが両者に共通する答えの骨子である。問いとそれらが出された状況は異なっていても、両者の解答は何とよく似ていることだろう。
 アウグスティヌスが直面した問題は神による世界の創造を説明することだった。神とその創造については次のような三つの主張がある。

(1)神は永遠である。
(2)神はある時点で世界を造った。
(3)神は恣意的でない。

これら主張の二つから残りの一つの主張の否定が導き出されてしまう。(1)と(3)からは世界が永遠で、したがって、(2)は誤りになる。(2)と(3)からは神が永遠ではないことが導き出され、したがって、(1)に反することになる((1)と(2)からは何が出てくるだろうか?)。これでは神の創造を説明できないことになってしまう。アウグスティヌスは時間についての独特の考察によってこれを整合的に説明しようとする。彼は神がある時点で世界を造ったことを否定する。神は時間の中に存在しているのではないから、ある時点で何かを行なうということはないと彼は考えた。そうではなく、世界を造る際に時間も一緒に造られたのである。時間は時間の中に存在する人間にだけ属する。神はすべてのものをそれらが現存しているかのように観ている。すべてのものは神の眼には過去や未来をもっていない。だが、私たちの時間的な見方では、すべての出来事は時間の経過の中で起こるものとして映っている。
 アウグスティヌスは時間の三つの区分、つまり、三つの時制(tense)を「存在」という概念を使って定義する。

過去は既に存在していないものである。
現在は今存在しているものである。
未来はまだ存在していないものである。
(これらの定義の「既に」、「今」、「まだ」は時間を仮定していないのか。仮定しているなら、それはどのような身分のものか。)

アウグスティヌスはこれらの定義を心理的なものと考える。過去は「記憶の働き」により、現在は「注意の働き」により、未来は「期待の働き」によって、私たちに経験される。時間はそもそも存在せず、神はこれらの働きをもつ人間を造ることによって、時間を造ったのである。つまり、時間は私たちが造ったのである。神の眼から観た時間、生活する人の目から観た時間(そして、その後の科学者の眼から観た時間)はそれぞれ異なっている。
 「時間とは何か」という問いは「Xは何であるか」というソクラテス的な問いの一つだが、この問いに対してアウグスティヌスは次のように答える。それは何かと問われなければ何かはわかっているが、問われて説明しようとするとわからなくなる。とはいえ、時間には過去、現在、未来があることを私たちは知っている。この時間の区別(=時制)を考え出すと、時間のもつ特異な性質が浮かび上がってくる。『告白』Book XI にはアウグスティヌスの時間論が展開されている。過去や未来は存在しない。というのも、過去は過ぎ去ってしまったもので、未来はまだ来ていないものだからである。過去も未来も存在しないなら、現在は過ぎ去ることなくいつも現在であり、それは永遠であることを意味している。それゆえ、現在だけでは時間を十分に特徴づけることはできない。そこで、アウグスティヌスは時間がどのくらい続くかを考える。出来事や時間間隔が短い、長いというとき、そのように言うことによって何が述べられているのか。過去や未来が長い、短いはそれが存在できる現在のとき、長い、短いと考えられる。だが、明らかに現在は延長をもっておらず、瞬間でしかない。過去も未来も存在せず、現在は瞬間であるとすれば、「何かが起こっている」とか「何かが起こるだろう」ということについて私たちが話しているとき、一体何が話されているのか。これにどう答えてよいかわからなくなる。だが、アウグスティヌスは過去や未来の話をすべて現在の話に還元しようとする。つまり、過去や未来についての主張が真や偽であるのは、過去の記憶や未来の期待についての現在の主張が真か偽であることだと関挙げる尾である。
 アウグスティヌスは、その著作『告白』で「時間の非実在」を主張する。過ぎ行く時間の彼方に無時間的に成立している完全なる全体、「神の永遠」が実在すると主張する。神には時間の流れは実在せず、それは心をもつ人間に主観的に存在するに過ぎない(つまり、時間の流れは全く人間的なものである)。心の動きに依存しない独立した「実在自体」には時間の流れは存在しないとアウグスティヌスは主張する。時間は過ぎ去り、消えゆくものである。つまり、唯一にして絶対、至高の存在である神の実在の在り方とは対極にあるのが時間である。時間の経過という在り方自体が、永遠なる神の被造物がもつ特徴であることを意味している。
 では、時間の流れが存在しない神の永遠と比べ、人間の時間は全く異なるのか。私たちは、永遠とは非常に長く連続的に続いていくものだとつい想像してしまう。だが、アウグスティヌスにとっての永遠とは、果てることのない時間ではなく、それ自体まったく時間をもたないものである。「永遠の瞬間」、「永遠の今」、「永遠の現在」とは、過去も未来も以前も以後も、昨日も明日も、誕生も死もない、時のない瞬間である。この「現在」という不思議な在り方が神とその被造物である人間をつないでいる。シュレーディンガーも「現在こそが、終わりのない唯一のものである」 と言う。現在の瞬間が連続的に進行していくとしても、現在そのものは私たちが「時間」と呼ぶものによって破壊されることがない。この現在の瞬間には、過去もなければ未来もない。つまり、時がない。そして、時のないものは永遠である。
 どんな時間であれ、それが時間的な幅をもつなら、その幅のある時間は過去と現在と未来からなる。こうして「現在」の幅は次第に切り詰められていき、持続的な幅を持たない点としての「瞬間」になる。時間は過去と現在と未来からなるが、「現在」は時間的な幅を一切持たないので、そこでは時間は経過できない。過去はもう過ぎ去った世界で時間は存在しない。未来は未だ到来しないので、時間が経過しようがない。未来も過去も時間が経過しているとすれば、それは未来でも過去でもなく「現在」を未来の現在と過去の現在に投射しているに過ぎない。だから、時間の経過は存在できない。時間が経過することのない「現在」とは、私たちの感じる常識とはかけ離れて、神の永遠を指し示している。未来や過去と対比されない「現在」が真の「永遠の現在」ということになる。
 神の「永遠」こそが、真の実在の姿であるとしても、私たちの心には未来や過去が歴然と存在する。私たちの心にとって、存在しない過去は想起の形で、未だ存在しない未来は予期という姿で「現在」において存在する。『告白』では、未来も過去も存在せず、また三つの時間、過去・現在・未来が存在するというのは正しくないと述べられている。そうではなく、過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するという方が正しいとアウグスティヌスは言う。実際、これらのものは心のうちに三つのものとして存在し、心以外にはそれらのものを認めることができない。過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は知覚であり、未来のものの現在は期待であると彼は述べる。過去のものの現在は、過去へと向かう現在の心の動きであり、現在のものの現在とは、現在まさに直面している心の働きであり、未来のものの現在は、未来へと向かう現在の心の動きである。そうだとすれば、これらの時間の働きは心の内にしか存在しない。その意味では、全てが現在の中にある。過去も未来も、想起や予期という在り方で現在の体験として在在している。しかしまた、「現在」は知覚という心の働きと結びつくことによって、想起や予期とは区別される。眼前に個物を見ていることは、「現在のものの現在」に属し、過去に経験した事物を想い出すことは、「過去のものの現在」に属し、将来を描いて期待することは「未来のものの現在」に属する。
 アウグスティヌスは「現在」を二つの異なる意味で使う。それらは、過去と未来に対比される様態としての「現在」と、心の働きの場として「現在」である。この使い方は正当だろうか。様態としての現在は瞬間、心の働きは意識であり、今の意識は瞬間的な意識と同じではない。この辺にトリックが潜んでいるようである。いずれにしろ、私たちの世界は歴史をもち、時間の経過の中にある。