心身二元新論

(一部修正しての再録)
 心身関係についてあれこれ思いを巡らしてみよう。どのような結末になるか、書いている本人が見当もつかないほどで、それだけ本人が一番興奮し、戸惑っているのかも知れない。タイトルは「心身二元新論」とでもなるだろうか。以下の叙述は整理された結果ではなく、考えている私の経過報告のような記録に近く、愚痴までも含まれているノートンに過ぎない。一度吐き出して,吐瀉物を腑分けすることが次の仕事になるのだが…まずはスタートしてみよう。

二種類の心身二元論とそれらの関係
(はじめに) 
 心身二元論と言えばデカルト心身二元論を誰もが思い起こす。「心と身体は異なる実体で、両者の間には直接的で因果的な相互作用がある」というのがデカルトの二元論の要旨である。この時の心身の相互作用とは原因と結果からなる因果作用のことであり、ある心的状態がある身体状態を引き起こし、また逆にある身体状態がある心的状態を引き起こすような心身の間の出来事の因果系列のことである。そこで問われることになったのは、心的状態と身体状態の間にある因果関係とはどのようなものかという問題であり、長い議論の末、終にはこの問題が解決できそうもないということになり、それがデカルト心身二元論の致命傷と見做されることになったのである。そして、この致命傷から彼の心身二元論は誤った主張であると烙印を押されることになった。
 ここではこの伝統的な心身の因果関係の他に、心身の別の関係を取り上げてみたい。それは、広義の因果的な関係と呼べないことはないが、古典物理学の法則に従うような連続的な状態変化ではなく、歴史的な進化過程と呼んでしかるべき過程である。また、私たちが何かを知るという認識過程もここに含まれる。心と身体がどのような因果的関係をもつかを知覚レベルで意識することなど覚束なく、たいていの場合その関係は判然としない。そのためか、スポーツ選手は心と身体の関係を訓練、練習を通じて意識化、可感化しようと大変な努力をする。それは心身関係がある程度は学習されるものであることを見事に物語っている。心身関係に肉薄しようとすれば科学的に身体の運動変化を知ることと並んで、意志やその実現に向けての心的な操作に精通するために、適切な学習や訓練をしなければならない。これは宗教体験を考えれば一層明白になるだろう。釈迦の悟りの追体験としての禅の修行、一心不乱に念仏三昧にふけることなど、その典型例ではないだろうか。
 心身関係は生物進化の結果として次第にできあがってきた関係であり、私たちが自らの進化の経緯をほとんど知らないのと同じように、その進化の一部である心身関係についても私たちはほぼ無知に等しい。にもかかわらず、常識は心身の関係を直観的に知っていると信じ込んできた。進化論は19世紀にやっと理論化され、少しずつ生物進化の具体的な仕組みや過程が判明し出してきた。また、脳神経系がどのようなものかわかり出すのは20世紀に入ってからであるが、心的状態の変化と脳状態の変化の間の相関的な変化に関心が高まり、今では膨大な知見が収集されている。
 進化過程に関しては必要なことだけに限定し、その他は別の機会に譲ろう。「気づく、意識する、知る、行為する」という(認識的な)過程を「介入」という観点から捉え、デカルトとは別の二元論を展開し、デカルト心身二元論がその二元論からの一つの帰結に過ぎないことを導き出してみたい。[1]
*介入:何かを知るには、その何かに対して私たちが手に取り、調べ、検査することになるが、その行為が「介入」である。実験は科学的な介入であり、その介入によって知識が得られることになっている。知覚することも介入であり、感覚器官と知識を併用して対象を知ることである。

デカルト的な心身二元論の位置)
 まずはデカルト心身二元論を振り返っておこう。彼の心身二元論は子供でも簡単にわかる単純な仕組みになっていて、心的なものと物理的なものの間に因果関係があるという説明は私たちの生活世界の実像を見事に捉えていると思われてきた。心的なものと物理的なものの間の因果関係は自然で疑う余地がなく、心をもつ私たちの思考や行動を説明する当たり前のものとして受け入れられてきた。物心ついた時から私たちは心身の相互関係の存在を正しいものと教えられ、それを使い、それに頼って生活してきた。そのため、言葉を使わないで考えたり、振る舞ったりできないように、心身の相互作用を前提せずに人間や社会のことを考えることはできないと信じ込まれている。これを「デカルトの呪縛」と呼んでもいいだろう。皮肉なことに、デカルトの時代以上に、心身の因果関係を細部にわたって追求するのが現代である。心身の関係に一層敏感になればなるほど、私たちはデカルト的な二元論に支配され続けていることを強く意識するようになる。[2](デカルト二元論を修正、否定し、異なる心身関係を提案した例を数多く知っているが、実に不思議なことにそれらは大衆化せず、哲学的議論の範囲内にとどまったままだった。それは今でも変わらない。だから、私もそれらをここでは無視することにしよう。)
 だが、少々冷静になって考え始めると、心身の相互作用という考えは、その見かけと違って、これほどわかりにくいものはないことがわかってくる。「意志することが行為実行の原因である」という謂い回しに不自然な点は何もない。例えば、殺人事件の解決には犯人の動機が大きな役割を演じる。にもかかわらず、誰も意志や動機から行為に至る因果系列を完全に特定することなどできない。それでもこの謂い回しが誤っているとは思われていない(殺人の動機と殺人の実行の間の連続的な因果系列が特定できなくても、殺人の動機が原因であると見做して何ら不都合はない)。デカルト的な心身二元論が背後でお題目のようにこの考えを後押ししてきたように思われてならない。細部がわからず、細部を考えれば破綻をきたすことがわかっていながら、当たり前の真理のごとく受け入れられる心身二元論は、大昔からの心についての宗教的伝統や倫理・道徳に助けられていたとはいえ、現在の私たちとその社会を実効支配し続けている。法律も経済もその基本には心身二元論が仮定されている。通常は正しいことが揺るぎない命題が土台に置かれるのが筋なのだが、心身二元論がなぜか土台に置かれて私たちの生活世界が成り立っている。これこそ謎の中の謎と言ってもいいのではないか。これを謎ではなく、それで構わない、というのが私がこれから主張する心身二元新論である。その前に、次の問いを考えておこう。
(では、なぜ私たちはデカルト的二元論に騙されてしまうのか?)
 心身の間に法則的、あるいは非法則的な因果関係があることはどのような意味で正しいと断じることができるのか。心身の関係は歴史的に次第につくられてきた事実であり、ボールが落体の法則に従うのとは明らかに違っている。落体の法則それ自体は進化しない。心身関係とは、偶然的な介入に自然選択が働き、それが蓄積され、形となって心身関係が出現し、それが適応として進化した。だが、それは偶然的なことであり、いつかその生物種が絶滅すると、それと共に心身関係も消滅する、ということでしかない。つまり、心身関係の進化は必然的な事実ではなく、偶然的なものを常に含んだ暫定的な規則性をもつ事実に過ぎないのである。生物種が世界に生まれ、死んでいくことが進化の要因を組み合わせて説明されるのと同じように、心身二元論が世界に生まれ、死んでいくことが進化論の中で説明される。心身の因果関係は進化の結果、つまり適応であり、心身の因果関係は進化し、変化し続けている。[3]それゆえ、魚類や爬虫類の心身二元論と哺乳類の心身二元論は異なる因果関係をもった異なる二元論なのである。
 心身の二元論に私たちの気持ちが自然に傾いてしまう理由は何だろうか。私たちは、心的状態が物理状態に働きかけ、結果として別の物理状態を生み出すと信じ、行為の原因として自由意志を考え、その意志は心のもつ大切な働きだと思っている。私たちは自らの心を使ってものに働きかけ、ものを変え、ものを手に入れることができる(と思っている)。その中には他人に働きかけ、その人の行動、その人の心に影響を与えることも含まれる。心が心に働きかけることもままあるとしても、ほとんどはものに働きかける場合である。芸術でさえ、芸術家の心はまずものに働きかけ、絵画や音楽はまずものを通じて、作品を生み出し、最後に人々の心に訴える。心がものに働きかけることができる理由としてデカルト二元論以外の理屈が模索されてきた。例えば、心的状態はその下に物理的な脳状態があり、脳状態に付随するのが心的状態であり、それゆえに心身の間には一定の付随的な相関関係があるという結論めいたものを生み出してきた。心を心だけで説明するのではなく、心と身体との関係で心を考えることの背景には「経験主義のトラウマ(なんでも経験に翻訳することが至上命令)」と呼ぶべきものが控えている。
 今や経験主義に反対する人はほんの一握りに過ぎない。経験主義を前提にして心の振舞いを理解しようとすると、知覚できるデータが不可欠で、直接に経験できない心的状態や心的能力を直接経験できる脳や身体の状態や能力を使って理解しなければならない。これが経験主義のトラウマである。さらに、この経験主義を20世紀により突き詰め、先鋭化させたものが物理主義や自然主義と呼ばれている。それによれば、経験主義は経験科学によって具体化され、経験科学の中で最も信頼できる物理学によって世界を知ることが最善の知り方であるということになる。すると、物理主義や自然主義を信じるなら、心や精神は(デカルトによれば)物理的でない実体であることから、心を知ることは最善の知り方では原理的に知ることができないことになる。これは実に不都合な結論で、それゆえ、心はお化けのようなもので、心的状態が存在したとしても脳という物理的なものの状態に付随する仕方でしか存在できない、ということになる。実体としての心が否定されるのであるから、このような結論が当然ということになる。
 さらに、実証主義や確証、検証といった知識の確認に重点を置く考えや概念(検証主義)が重視されるようになると、形而上学や哲学の抽象的概念とは異なり、情報、データ、検証、測定、観測といった知識習得の装置や技術が不可欠になり、それが心にも実証的に接するべきであるという態度を醸成することになった。これは心にとってすこぶる不都合なことである。「眼に見える心」は「丸い三角形」のように形容矛盾だと受け取られてきた長い伝統をもっている。そのため、見えない心は経験主義の後継者となった実証主義、さらには物理主義や自然主義の中では無意味な形而上学的概念というレッテルを張られることになった。そして、「こころ」は誤った時代遅れの概念に過ぎないと考えられるようになってきた。
 このような状況で、心身相互作用の二元論は、意外にも物理主義や自然主義に合う側面をもっていた。心が身体や脳とは異なる実体という規定は実のところどうでもよいものだった。なぜなら、アリストテレス由来の実体概念は時代遅れで無用な概念であることが言わずもがなのことになっていて、心身の身も実体であると誰も既に信じていなかったからである。それに対して、心と身体が相互作用するなら、具体的にどのような相互作用が認められるのか、これは科学的な問いとして満更でもないものだった。だが、冷静になればすぐにわかるように、心と身体の間の因果関係は魔訶不可思議で偶然的な因果関係風のもので、それゆえ、未だに明解な答えのないものである。科学的になればなるほど因果関係を特定しなくてはならなくなり、デカルト的二元論は科学的なターゲットにされ、ますます謎めいたものになってしまった。
 以上のことが、私たちがデカルト的二元論にそれなりの魅力を感じ、自らをその二元論の中で考えることになる理由である。「心は身体に付随する」という現代風の心身関係は、物理主義をより重視する仕方で心身の関係を考えようとするもので、実質的には二元論と大差ないものである。心身の関係をつけること、心を物理過程に関連させて考えることが習い性となって、心だけ脳だけを独立に、自律的に考えることがすっかり忘れ去られてしまったことをここでしっかり確認しておきたい。二つの間の関係より、二つそれぞれがどのように理解できるかをまず確定し、その後に必要なら相互の関係を考えればよい、このような態度で問題を捉え直してみよう。心身の間に想定できる因果関係はどのような関係かといった問いは暫く忘れるべきなのである。

(二元論のエポケー)
 映画の世界と現実の世界の間の乖離を考えるなら、夢と現実、犬の世界と猫の世界、天上と地上の世界といった、同じような乖離が浮かんでくる。これらのどれよりも違いの大きいのが心的世界と物理世界である。その間に因果関係を考えることは果たしてできるのだろうか?「犬と猫は話し合えるか」、「夢と現実の間に因果関係があるか」という問いがバカバカしい問いであると思う人がいれば、その人は「心と身体は相互作用するか」という問いをそれ以上にバカバカしい問いだと思うのではないか。
 デカルトの心身相互作用は本当のところどのような相互作用なのか。意識されているもの(感じているもの、表象しているもの、信じているもの、意志しているもの等々)の間での心的因果はある程度自覚でき、意識できるが、心身の間での因果関係は直接感じることができない。私たちはそもそも因果関係を知覚できない。心と物理世界の間の因果関係を私たちは具体的に想像できない。「感覚知覚できる因果関係」という概念自体あやふやで、端的に因果関係は恋愛関係と同じように眼で見るだけでは皆目わからない。因果関係は物理学の理論とその因果的な解釈に基づいている。そのため、物理学で定義できない「因果性」は無定義のままで、複数の解釈を許すものとなっている。
 物理的な因果関係が徹底して物理学の知識に基づき、その上「因果性」自体が形而上学的な措定であることから、物理レベル、生理レベルの因果関係は科学理論と因果性の定義に基づく仮構物である。一方、心的レベルでの意識的な因果関係は心的レベルの論理的、言語的な関係と並んで、主体の思考や行動を理解し、説明するためには不可欠の枠組み、装置となっている。つまり、物理的因果関係が知識に基づく関係、心的因果関係は意識に基づく関係となっている。そのため、通常の心身の因果関係、私たちが自然に受け入れ、当たり前と思って使っている心身の相互作用の背後には、実は誰もよくわかっていないにもかかわらず、複数の因果関係の存在が自明のこととして信じ込まれている。これこそがHard Problemというか、「深遠なる謎」と呼ぶべき事柄である。なぜ私たちは心身の因果関係を受け入れ、自明のものとして認め、それを社会の中で真理として使ってきたのだろうか。デカルトの偉大な天才に敬意を表してのことでないのは確かだが、彼の心身二元論が自然に受け入れられてきたことは疑えない事実である。
 デカルト的二元論は実は構成された、人工的な二元論で、しかもとても不完全な二元論である。デカルトが提唱して以来、その二元論の細部は徐々に明らかにされ、その追求は現在でも続いている。どのように人工的に心身の関係を構想し、それを実際の因果過程として実現するかの試みは今でも着実に続き、それがAIやロボットの研究となっている。その研究と同じように、私たち自身生まれて以来の学習によって心身二元論を身につけ、その結果として心身をコントロールできる行動様式を獲得しているのである。心身の関係をコントロールできることが技術の習得、スポーツ競技の勝敗、生活のあらゆる場面での知恵に必要不可欠な条件となっている。

(学習による二元論)
 心身二元論がこれほど普及している理由は絶えざる学習に尽きるのではないか。幼児教育以来の学習、社会の伝統、生活習慣等によって、言語と同じように心身二元論は私たちには自明で不可欠の生活必需品の一つとなっている。そして、心身二元論は言語と同じように思想ではなく、無意識に使うことができる習慣になっている点に注目すべきなのである。物理主義や自然主義が思想であり、反対者が必ず一定数存在するのに対し、習慣は思想と異なり、無意識的に心身二元論を受け入れさせるという魔力をもっている。習慣は私たちの疑問や批判を麻痺させる。意識することなく、自然言語を操るのと同じように、知らず知らずのうちに私たちは心身二元論のもとに生活しているという訳である。
 習慣化した二元論をご破算にして考え直すことは、信じていた宗教を一度捨てて考え直すことに似ており、創造不可能なほどに労力のいる仕事である。

(進化的な適応による二元論)
<要旨のような構図>
 行為するための介入、知るための介入は、介入からスタートして、行為の結果や知ったことを蓄え、それらを使うことによって、世界の中の出来事や知識が生まれる。行為し知ることによって、さらに次の介入が促される、このサイクルが循環し、次第に行為や認識のパターンが形成されていく、そして、これが因果関係として整理され、見事なプラグマティックなイメージが形成され、心身相互作用論として結実する。
 古典的世界観、特にデカルトの機械論的世界観の中での心身の因果関係は歯車を使った機械的なからくりシステムだが、想定される因果系列の中に意識可能な項目が飛び飛びに登場する仕方になっている。何とも奇妙な系列で、想い描けるだけのもの、絵にかいた餅に過ぎない。


[1]意識が物理的な世界とは一線を画しているのとは違って、気づきが物理的な現象であるのは確かであるが、いつどこでどのように気づきが起こるかは物理的にはわからない。経験がすべて物理的な出来事であるなら、気づきも物理的出来事になり、コイン投げと同じ現象として考えることができる。実際、物理一元論に従えば、介入も物理現象として予測できることになる。そして、物理学自体が物理現象であることが最終的に帰結することになる。誰もこの帰結は認めないだろう。すなわち、その前提である気づきの物理化から気づきをすべて物理的な現象だと言い切ることではない。つまり、物理化できないものがあるということは物理一元論が成り立たないということである。
[2] 心の病、精神的なものへの配慮は社会の中で認められ、市民権をもつようになったのが20世紀だった。心は実体でなくなっても社会の中では人権と同等な仕方で承認されてきた。
[3] リンゴが落下するのは重力の法則に従い、その法則が進化することはないが、心身関係は物理法則ではなく、進化の結果に過ぎない。心身の因果関係は物理法則に従わない。物理法則に従う、物理学を使って説明できる、というのは脳の中の過程であって心身の関係ではない。心身の関係は進化の結果であり、その身体的な過程は物理法則に従う。