二値性の原理、そして多値性の原理

 正確さ、精度、確実さといった概念を巡って色々考えてきた。物差しや時計だけでなく、理論や言語も含めて、「明晰判明」な知識とは真であるだけでなく正確無比な知識だった。言明の真偽と正確さは同じではなく、二つの関係は微妙な問題を多く含んでいる。ここでは真偽がいつでも決まっていて、真か偽かのいずれかの値をもつという前提について考えてみよう。
 真偽がはっきりせず、曖昧模糊としていることは日常生活ではむしろ当たり前のこと。「知らない、わからない」というのは当該の言明の真偽を知らない、決定できないということだから、そのような状況を一度も経験していないとなったなら、暫定的でも全知の人ということになる。実際、私たちは全知でも全能でもない。
 そこで、いつでもどこでも言明は真か偽のいずれかの値をもつことと、実際にいずれの値かを決定することの間には違いがあり、私たちの知的な探求は具体的に真偽を決定することであると理解されてきた。このような伝統的な立場を表明したのが「二値性の原理」と呼ばれるもので、真偽という意味論的概念に関する原理である。

<二値性の原理>
どんな言明も真か偽か、いずれかの真理値をもつ。

 この原理を否定すると、真でも偽でもない真理値をもつ言明が存在する、となるが、このような言明は存在するのだろうか。確かに私たちが真偽を知らない言明は珍しくない。だが、それは私たちが知らないだけで、実際は真か偽のいずれかなのだというのが伝統的な立場だった。だが、言明によっては真でも偽でもない値をもつということを原理にしたのがファジー論理あるいは多値論理と呼ばれる非古典的な論理システムである。

<多値性の原理>
真でも偽でもない真理値をもつ言明が存在する。

 言明(あるいは命題)とは、アリストテレスの定義によれば、「真、偽をもつことができる文」である。この真、偽の値のどちらかを必ずとるという前提が二値原理。だが、「来年の正月は晴れる」という言明は、現在のところ真でも偽でもなく、真理値は不定である。どんな言明も真、偽が既に決定しているなら、決定論というより運命論を主張しているということもできる。運命論の回避を名目にして、真、偽の二値だけでなく、さらに不定という三つ目の値を認める「三値論理」を考えることができる。この三値論理をさらに一般化して、{ 0, 1/n, 2/n, …, n-1/n, 1 } というn個の値をとるn値論理や無限値論理を考えることができる。
 「ある命題は真であるか偽であるかのどちらかである」という古典論理の前提(二値性の原理)は、「花子は若い」という言明についても成り立つ筈である。5歳の花子、6歳の花子、…20歳の花子ならば、この言明は文句なく真である。だが、「若い」という述語は、若い人の外延がぼやけていて、明確な線引きができないファジー集合である。60歳の花子は確かに若くないので「花子は若い」は偽であるが、30歳の花子は若いと思う人もそうでないと思う人もいて、その真偽は曖昧である。このような曖昧な概念をもつ述語は沢山ある。さらに、「花子は相当に若い」、「花子はかなり若い」、「花子は十分若い」などという言明になると、誰もがその外延が曖昧であることを最初から認めるだろう。したがって、このような表現を多く含む自然言語の言明については二値性の原理は成り立たず、多値性の原理に基づく論理システムが有効だという考えが出てくることになる。
 多値性の原理に基づく論理システムの一つがウカシェヴィッツ(Lukasiewicz)の論理システムである。そのシステムは次のようなものである。

・v(…) は、括弧内の式の値を定める付値関数
・min(…) は小さいほうの値を、max(…) は大きいほうの値
・v(A)は、0から1までの間の値
v(¬A)=1-v(A)
v(A∧B)=min[ v(A), v(B) ]
v(A∨B)=max[ v(A), v(B) ]
v(A→B)=1         v(A)≦v(B)のとき
    =1-(v(A)-v(B)) v(A)>v(B)のとき

これによって、Aが1なら、⏋Aは0、Aが1/2なら、⏋Aは1/2 、Aが0なら、⏋Aは1となる。二値論理でトートロジーであった式が、三値論理でもトートロジーであるとは限らない。例えば、排中律(A∨¬A)は
v(A∨¬A)=max[ v(A), v(¬A) ]
     =max[ v(A), 1-v(A) ]
であるから、v(A)=1/2 のとき
v(A∨¬A)=1/2
となり、トートロジーではない。一方、同一律(A→A)は、三値論理でもトートロジーであることがわかる。v(B)≦v(A)のときv(A→B)=1という定義に従って、v(A→A)=1であることがわかる。

 日頃二値性の原理が成り立つ古典論理を使って私たちは考えていて、ファジー論理の場合はむしろ確率や統計に頼っている。確率や統計は古典論理に従ってつくられた理論であり、言明の真偽ではなく、言明内容の出現や生起についての値が確率値の解釈になっている。真理値と確率値はこのように異なると言ったところで、それは実に悩ましい区別で、混乱を起こすこと必定ではないだろうか。混乱が少しでも生じたならば、それをきっかけに追求を始めるしかない。