「Xとは何か」についてのメモ

・色とは何か(人とは何か)(原子とは何か)
・これは何色か(これは誰か)(これは原子か)

 上の二つの問いは随分と違う問いだという印象を与えるのではないか。二つの問いの使われ方は大きく異なることになっているのだが、どのように異なるかの理由は再考する必要がありそうである。「色とは何か」は哲学的、原理的な問いで、色の定義だと思われているふしがあるのに対し、「これは何色か」は眼前の対象の色を知るための実用的な問いだと決めつけられているようにみえる。色の場合にはこのような問いの分業は問題がないようにみえるのだが、「人とは何か」、「これは誰か」や「原子とは何か」、「これは原子か」になると、人や原子が色とは違う対象であることが微妙に二つのタイプの問いの違いにも影響を及ぼすことになる。人は誰も固有名という名前をもつが、原子はそうではなく、「これは誰か」と「これは原子か」は異なる問いであり、いずれも「これは何色か」とも違っている。色の場合なら、二つの問いの違いは、色の本性を問うことと実際に見える色が何色かを問うことの違いと言えるのだが、それと全く同じようにはならないのが人や原子の場合なのである。
 そこで、より基本的に、「何も知らない対象X」について、それが何かを知ろうとして、私たちはどんな問いを発するか調べ直してみよう。

(1)X
 Xが何か一切わからず、しかもXは箱の中に入っていて、見ることもできないとしてみよう。その時、「これは何か」という問いは「この箱の中に何かあるなら、それは何か」といった問いに変わってしまうのではないか。箱の中に何かあることさえ不明の場合、「これは何か」とは問わない筈である。そして、それがXについて何も知らないと言うことである。Xについて何かを知っていないと、問いさえ発することができないのである。
(2)Xを見る
 何の知識もなくXを見るなら、Xの知覚だけが情報として与えられる。正に意識に直接与えれれるもの(直接与件)である。Xが何かを知らなくても、「これは何か」とはっきり言うことができる。むろん、Xの色、形、姿についても知ることができるから、「Xは白い」、「Xは大きい」などと言うことができる。それでも、私たちはXを知らないと強く意識できる。特に日常生活で利用するものについては、Xの名前を知らないと、Xがわからないと不安になる傾向が強い。そのためか、人の名前を聞いただけで、その人を知った気になってしまう。
(3)Xを調べる
 Xについて細かく観察し、Xについて学習し、情報を収集し、Xについての知識を得る。Xの名前を知ることもそこに入っている。経験的な知識の特徴がここから抽出されることになる。日常生活では誰かが調べてまとめたXについての知識を知り、それを使うことになる。つまり、そこでは知の分業が成り立っている。
(4)Xについての知識を総合する
 Xについての総合的な知識はXの定義として要約される。(3)に述べられたように、仮説的で修正可能な知識であるから、定義も時間的、空間的な分脈に応じて変化することになる。

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 以上のことを昨日紹介した「深山含笑」を例にして私の場合を考えてみよう。
・見るだけで、それ以外の情報は一切ない
 深山含笑を始めて見た私には「それが何か」わからないことが強く意識され、不安、不快な気持ちになる。知らないと不安、不快というのは不思議な連合意識で、意識の習慣である。私は気を取り直し、木、花、葉といった部位について観察する。すると、色や形についての知覚情報がスムーズに手に入る。また、私の記憶には類似の植物、ハクモクレンやコブシの知識があり、それらを想起することになる。
・部分的情報の区切りになるのが固有名詞のような植物の名前
 私はそれでも「深山含笑」という名前を知るまでは落ち着かない。そのため、あちこち調べ、ようやくその名前を知ると、その対象を知ったかのような錯覚をもつ。老人の私はそれで十分とつい思ってしまう。
・名前以外の部分的な知識
 経験的な科学的知識の蓄積として学習され、新しく解明された知識と共に手に入る。私自身はそのような経験を幾つか記憶している。
・「Xとは何か」の定義
 定義は理論や仮説を前提にした上で行われ、それがWhat型の問いへの答えになる。「Xとは何か」は哲学的な問いだと思われてきたが、その意味は「Xについての知識の要約」であり、科学では幾つかの仮説を前提にした上での知識の要約であることがわかる。問いの型のいずれが基本なのかについて、What型が基本にみえるのだが、対象について何も知らないとその問いさえ発することができないことがわかる。仮説や理論を背景にした問いの解答は暫定的、部分的な要約として、定義となることができる。

 このようにまとめてみると、素人の私が深山含笑について知るには何が必要かが見えてくる。まずは対象を見て、それが何かを同定すること。つまり、観察した対象の存在と記録(記憶)された知識との共同作業によって、その名前と本性を知ることを達成することである。それに応じて問いの形が変わっていき、最後は「深山含笑とは何か」に対する解答がまとめられ、それが定義として採用されることになる。むろん、最後まで完結する必要は必ずしもなく、名前が同定されることがまずは目標で、日常生活での語彙使用にはそれで十分だろう。