Bergson and Supertask Revisited

 ベルクソンを批判してきたが、純粋持続の立場からスーパータスクについて何が言えるのだろうか。ベルクソンならタスクそのものを否定するだろう。運動の分割を認めないことは、アキレスがカメを追い抜くのを目撃するだけであり、その経験を味わうことしかできないことを認めることである。いつ追い抜くか、どこで追い抜くかなど一切問わず、見て感じるしかないのがベルクソンンの立場である。だが、これではアキレスとカメの競走を知ることにはならない。直観的にわかることと知識を使って知ることとの大きな差がここに露呈している。ベルクソンは現象を知ることではなく、現象を体験して直観することを選んだのである。以下のスーパータスクの議論に対して、ベルクソンはどのようなコメントをするのだろうか。

 スーパータスクはスーパーマンを連想させる大袈裟な名称だが、「有限の時間間隔の中で無限の操作を行うタスク、課題」のことでいたって真面目な概念。この物理世界で私たちにできることは有限時間内での有限回の操作である。それが普通の人間のタスクの宿命的な特徴であるのに対して、神やスーパーマンにしかできない無限の操作を実行するタスクということでスーパータスクと呼ばれてきた。
 スーパータスクの最初の例は「ゼノンのパラドクス」。アキレスが100メートル走るにはまず50メートル走る必要があり、そのためには25メートル走る必要があり、さらにそのためには12.5メートル走らなければならない…これは限りなく続き、結局アキレスは無限の地点を通過しなければゴールには到達できないことになる。ゴールを目指すアキレスは有限時間内に無限の地点を通過するというスーパータスクを実行しなければならず、それはこの世界では不可能であるため、ゴールすることができず、それゆえ、運動は不可能とゼノンは結論した。これが運動に関するゼノンのパラドクスのスーパータスク版。「アキレスはスーパータスクを実行できない」という当然の結果がゼノンのパラドクスということになる。有限時間内に無限の点を通過することはできないと言われると、つい成程と合点してしまうのだが、その時の「点」とはどのような点なのか。この点は物理的な点、つまり、粒子のようなものではない。サイズのない点、大きさのない幾何学的な点であることに注意すべきである。すると、点に大きさがないのだから、どれほどたくさんの点でも通過できるのは当たり前だと思えてくる。
 ゼノンのパラドクスに対する解析学的な解答は「連続的な運動が極限概念によって表現可能である」ことに基づいている。これは運動する区間のどの分割もゴールそのものではないが、その分割の極限がゴールであることを数学的に示すもので、ゴールに到達できることをスーパータスクとして数学的に可能であることを示すものだった。実際、分割された区間の有限和の系列を考え、その極限としてゴールに到達することを示すのが解析学を使った解決方法である。
 極限概念は連続的な変化の表現に必要だが、変化が離散的な場合はどうであろうか。Sorites(連鎖論法のパラドクス)は古来有名なパラドクスだが、「山盛りのピーナッツの皿から一個つまんでもやはり山盛りのままである、そして、n個つまんでも山盛りのままなら、(n+1)個つまんでもやはり山盛りのままである」という連鎖的な形式をもっている。こっそりピーナッツをつまみ食いする向きには好都合な言い訳の仕方である。また、数学の授業で学んだ数学的帰納法は次のような公理で、数学ではそれを使って実際の証明方法として多用されている。
0はFである
nがFなら、n+1はFである
それゆえ、どんなnもFである
これをSoritesに応用して、F(n)を「ピーナッツn個は山盛りでない」としてみよう。ピーナッツ0個は山盛りではない。だが、ピーナッツが何個かあれば、山盛りになる。すると、ある数より多いか少ないかで山盛りかそうでないかをはっきり分けることができることになる。
F(0):ピーナッツ0個は山盛りでない。
あるnについて、F(n)ではない:ピーナッツが何個でも山盛りというわけではない
それゆえ、あるnがあって、n個のピーナッツは山盛りではないが、(n+1)個のピーナッツは山盛りである
上の二つの推論の関係はどうなっているのだろうか。数学的帰納法の公理の最初の前提と結論の否定を前提にしたのがSoritesの論証である。だから、数学的帰納法の公理が正しければ、Soritesの論証も正しいことになる(なぜなら、AとBから、Cが出てくるなら、AとCの否定から、Bの否定が出てくるからである)。
 だが、nとn+1の線引き、つまり、どこまでが山盛りでなく、どこからが山盛りかの線引きができるだろうか。それがうまくできないのが「曖昧な(ambiguous, fuzzy)」述語のもつ特徴である。「綺麗」、「美しい」という述語の適用範囲もはっきり線引きされていない。したがって、概念の外延が曖昧な術語が使われている命題に対して数学的帰納法を使う論証は信用できないことになる。
 これが連続的な場合はどうなるだろうか。例えば、アキレスが区間[0,1]を走る場合である。それは次のように表現できる。F(n)を、アキレスは地点nでゴールしていない、としよう。スタート時点ではゴールしていないので、F(0)。だが、ゴール時点ではF(1)でない、となる。Gを区間の部分和の集合で収束条件を満たしているとすると、
F(0)
F(1)ではない
あるGが存在し、そのGのどんな要素xについてもxはFであり、Gの上限はFでない
G=[0,1]のとき、Gの上限は、supG=1となり、アキレスはゴールできることになる。
 これは前の議論と同じことで、超限帰納法が成り立つことであり、それはスーパータスクを実行することである。だが、この物理世界で具体的に実現することは不可能なことである。また、前と同じように連鎖論法のパラドクスも生まれてしまう。スーパータスク、Sorites、帰納法がいずれも同じ問題を異なる見方、方法で捉えていることがこれではっきりする。
 スーパータスクがもつ哲学的な問題は、数学的な操作と自然の中で起こる出来事の間にどのような関係を想定できるかという問題である。また、自然の数学化が如何にして可能かという原理的な問題とも関連している。スーパータスクは自然の数学化に対する反例となる場合が多い。それは何故か説明されなければならない。
 スーパータスクの典型例となれば、誰もがトムソンのランプ(Thomson’s Lamp)を挙げる。ここではニュートン力学の非決定論だけ考えてみよう。「物理的な対象の無限の集合はニュートンの運動法則に一致する仕方で自発的に励起できる」という命題はニュートン力学では偽の命題にみえる。だが、その証明は以下の通りである。質量mの質点が1メートルの線上に1, ½, ¼, …と並んでいるとしよう。最初の質点が1秒に1メートルの速度で次の点まで押され、衝突する。衝突で最初の質点の運動量は次の質点に移動し、最初の質点は静止する。次から次と衝突が続き、最後にはすべての質点が静止する。ニュートンの法則は時間に関して不変であるから、時間を逆転しても同じように成立している。すると、逆転した衝突の過程は時刻t>0で何の原因もなく始まることになる。すなわち、最初の命題が成立する。そして、これは明らかに決定論の反例となる。[*]
 ところで、例に登場する無限の系列は、物理的な過程なのか、それとも物理的な過程を表現する数学的な過程なのか。
 私たちが物理世界で何かを実行する際の実現の手順と、それを心の中で意識的に実行する際の手順とは多くの場合同じように対応していると考えてよいのだが、Supertaskの場合、つまり無限の手順や過程が入る場合は同じという訳にはいかない。コイン投げを実際に行う場合と想像する場合に大きな違いはなく、いずれで考えても似たり寄ったりの説明ができるようにみえる。だが、無限の手続きや手順が入ると、話は違ってくる。物理世界に無限を認めないために無限と有限の違いはそもそも問題にならない。だから、意識は物理世界に頼らないで有限と無限の区別を自前でしなければならない。ここには経験科学でも経験や実験・観察にだけ頼れないことが露呈する。
 物理的な過程として述べることができなくても、その過程を意識的な過程として考えることを私たちは平気で行う。それが経験的な学習であり、物理的な変化の肝心なところさえ押さえれば、観察データがなくても途中は意識的に補うことができる。有限の離散的な観察によって私たちはそれを連続的な変化として捏造し、再現するのである。
 したがって、経験的な観察・実験に頼れないところにスーパータスクの真の姿がある。数学的知識を使って物理的変化を知るときの不可避の壁がスーパータスクなのである。循環小数がずっと循環し続けることを意識することはしっかりできるのだが、その循環の持続を実現することは私たちにはできない。意識上ではできる循環は物理的には常に未完なのである。
[*]Laraudogoitia, J. P. (1996), A Beautiful Supertask, Mind, 105, 81-83.
 Laraudogoitia, J. P. (1997), Classical Particle Dynamics, Indeterminism and a Supertask, British Journal for the Philosophy of Science, 48, 49-54.

*補足の小噺
 落とし話は小噺、小話、小咄と書かれるが、いずれも近代に入っての呼称。そんな小噺の格好の例がHilbertの無限ホテル(正確にはHilbert’s paradox of the Grand Hotel)。無限集合を認めると、有限集合の場合と全く違った奇妙な事態が物理世界で起こることを示すパラドクス、あるいは小噺。
 客室が無限にあるホテルを仮定。客室数が有限なら、「満室である」と「もう1人も泊められない」とは同値。だが、客室数が無限では同値ではない。無限ホテルが満室だとしよう。客室数に1, 2, 3, … と番号を付けておく。客が1人来たら、1号室にいた客を2号室へ、2号室の客を3号室へ、3号室の客を4号室へ、…、n 号室の客を n + 1 号室へ、…と順番に移す。客室は無限にあるから、新たな客は空いた1号室に泊めればよい。こうして、新たな客は1人どころか、何人でもよいことになる。だから、「もう1人も泊められない」は誤りで、同値ではない。
 現実の有限ホテルでは、奇数号室の数は全室数より少ないが、無限ホテルではそうではない。数学的には、全室からなる集合の基数(個数)は、その新部分集合である奇数号室すべての集合の基数と等しい。これこそ無限集合の特徴である。
*What is known as "Hilbert's hotel" is a story of an hotel with infinitely many rooms that illustrates the bizarre consequences of assuming an infinity of objects or events in the world. For a long time it has remained unknown whether David Hilbert actually proposed this thought experiment, or it was merely a piece of mathematical folklore. It turns out that Hilbert introduced his hotel in a lecture of January 1924. The counter-intuitive hotel only became known in 1947, when George Gamow described it in his book.