ベルクソンの持続

 ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941)の『物質と記憶』は、大学に入った私が一生懸命読んだ本の一つ。日本語訳でも無駄のない表現で、それはフランス語でも然りで、何とも的確、華麗で、緊張感ある文体で表現されていた。彼は「持続(durée)」と「物理世界」と「主体」について考察している。カントは、実在論と観念論の関係をコペルニクス的転回によって統合したが、ベルクソンはそれをさらに一般化した。カントは主体が感性、悟性、理性という形式で世界を切り分け、主体が超越論的視点から世界を見ることによって初めて世界が世界として成立すると考え、世界は主体の経験によって初めて実在するものになると主張し、観念論が実在論を支える仕方で可能になることを明らかにした。それに対して、ベルクソンは、まず主体は単なる世界の観客ではなく、世界の中の行為者であり、それゆえ、主体は物理的世界を自らが生きる舞台として利用する。人は知るだけでなく、行為し、世界を変え、生きる。そのような主体の行為の中では世界は静止した瞬間として切り取ることができない。世界は持続している。その持続の中で、記憶と運動する身体とが一緒になることによって、主体が世界の中で生きることが実現している。カントとは随分違うが、主体によって世界が成立する点では同じであり、観念論に陥らないで、きちんと実在世界を組み立て、観念論と実在論が矛盾しないような世界モデルにしてしまうところは、カント路線の踏襲になっている。
 このような解説で納得する人はまずいまい。だが、ベルクソン哲学の独特の風土を感じ、その風景を僅かでも感じることはできるのではないか。創作家ベルクソンの本当の狙いは何で、それによって私たちは何がわかるようになるのか、これまでにない知識がどのように得られるのか等々を、彼が生み出した独特の心的風土に身を置いて感じてみてほしい。ベルクソンは言葉の魔術師であり、老獪な説得術に長けている。読み進めながら、正確な解答が何もなくても気にならないのが不思議なのだが、それがベルクソンの風土なのかも知れない。『記憶と物質』に注目すれば、二元論の矛盾が解消されるだけでなく、決定論と自由の矛盾も解消し、さらに希望ある世界が見えてくる、と言われるのだが、二元論が解消されること、自由と決定の矛盾が解消されることが、それが本当のところ何を意味し、どんな利益をもたらすのかとなると、曖昧模糊とした朦朧体の風景になっているのである。
 持続はフランス語でdurée。ベルクソンの独自の用語で、意識の直接の事実として,何ら反省の加えられない直接の時の流れ、というのが辞書的な解説である。直接の所与と言い換えることもできよう。では、この持続を正確に定義できるだろうか。ベルクソンは持続を数学的な概念とは根本的に違うと考えるためか、連続性、完備性などの性質をもつであろう持続を数学的に定義しようとはしない。そのため、文学的な表現によってしか持続を表現せずにきた。ある対象の持続とは、対象がある時間間隔の間、存在し続け、かつ変化もできることなのだが、誰もそのようなつまらない言い換えをしないのである。
 このようなズレの背後にあるのが次のような溝である。直線が実数と対応していて、その実数は有理数無理数からできている。瞬間は点として、区間は線分として解釈され、物理世界の力学的な状態は実数を使った関数によって表現される。このような考えを実行することが「自然の数学化」と呼ばれるのだが、その数学化によって自然が理解できると考えることを偉大な成果だと受け取るタイプの人と、それは自然を曲解しただけで、本来の自然を知ることではないと抗するタイプの人がいる。そして、後者が哲学者で、前者が自然科学者だとステレオタイプの如くに分類されてきたようなのである。その哲学者の代表がカント、ベルクソン、そしてフッサールだろう。点から線をつくることができるかどうかという純粋に数学的な問題と、物理世界で瞬間から時間的な区間をつくることができるかは異なる問題で、時間に関する問題は空間化できず、意識や記憶の領域の問題であるというのが哲学側の基本姿勢である。そして、彼らは意識や記憶の領域こそ人が主体として世界に係る領域であり、主体的に世界を知ることによって世界が立ち現れてくるというロマン主義的構想を具体化できると考えるのである。

 時間を幅のない瞬間という切り口で捉えようとしては、本当に問うべき質的な流れをすべて逃がしてしまうことになるから、物理的時間のみで世界を扱ってしまうと何も得られないと主張するのがベルクソン(本当は何を言っているのか曖昧なのだが、そう言われると何となく納得したくなる実に巧みな表現である)。そこで、ベルクソンは純粋な「持続」を世界把握の基礎に置き、そこから世界を把握しようとする。「持続」という、物理的な実在ではない不思議なものから世界を捉え直し、その結果として実在論と観念論の矛盾のない統合を目指すというのである。
 ベルクソンによれば、時間にとって固有なことはそれが「流れる」ことである。既に流れ去った時間は過去であり、私たちが現在と呼ぶのは流れ去りつつある瞬間である。だが、ここで問題となっているのは何らかの数学的な瞬間ではあり得ない。「私の現在」と呼ぶものは、同時に、自分の過去にも未来にも食い入っていて、時間的に幅をもつものである。
 ベルクソンは、私が現在を捉えようとするのであれば、その現在は必ず時間幅がなければならないと考える。そうでないと、生きている私が生きているものとして得るべき感覚的質を捉えることができない、と彼は言う。例えば、ある色を想像するとき、現在主義的に現在という瞬間にその光の波長を押し込めて、波長の記録と予想がその瞬間の中にあるとしてみても、光の波は瞬間には波になれず、その質感を保持することはできない。つまり、その物体の性質は時間幅が無ければ失われてしまう。質を考えるには質感そのものを捉えるための時間概念が必要で、その捉え方が「持続」なのである。ベルクソンは時間を「物理的時間」と「非物理的時間」とに分けて考えたときの「非物理的時間」の方を「持続」と考えたことになる。
 ブロック宇宙モデルでの「物理的時間」はブロック空間の一部であり、世界の中で空間的な長さ、延長として測定することができるものである。「物理的時間」は測定可能で、様々な他のものと比較することができる。一方、「持続」は、そのような空間的な長さを測れるものとしての時間ではなく、変化が起こっている意識的な様である。測定して程度の差として数値化したり、他と比較したりすることはできないが、自分自身の質的変化を捉えて、差異を感じることができる。ベルクソンはこれを「本性の差異」と呼び、「物理的時間」の持つ「程度の差異」と区別した。ドゥルーズはこれを、「物理的時間」は知性的で、データの一般化に対応し、統一性と支配的傾向を持つのに対し、「持続」は感情的で、個別的なままだと表現している。わかったようでやはりわからない曖昧な表現である。世界の状態について実際に語ろうとしても、「純粋持続」だけでは有意味に語ることができない私的言語のようなものである。ベルクソンは、この「持続」によって世界を切り開き、記憶と知覚を援用することによって、物質世界を再発見しようとする。持続、記憶、知覚という主体の意識の能力によって物質世界を再構成しようとするのであるから、それがうまくいくなら、物理世界が私の質的で観念論的な世界と共存できることになる。正に哲学的な曲芸であるのだが、その曲芸が誰にもできる曲芸かとなれば、誰にも確信は持てないのではないか。

 「AがBである」と断言するには定義か、見るだけで十分であるなら、それは既存の知識か瞬間的な情報だけで十分であることを示している。「AがBである」ことを知っている、あるいはそれが言語的にトートロジーや分析的な命題なら、いつでも「AはBである」ことから、間髪入れず、瞬時に「AはBである」。定義上の事柄がその通りかどうかは問うまでもないことであり、それゆえ、見ただけで瞬時にわかることである。
 だが、「AがBになる」と言うためには、Bになる前に先走って勝手にそうだと言うことはできない。だから、見ただけで瞬時には言えないのである。だが、理論的にAからBが導出できる場合、つまり「AがBになる」ことを知っている場合は瞬時にBだと言うことができる。だが、知るためには見て瞬時にわかるのではなく、じっくり知識を手に入れる必要がある。
 「生きる」、「生じる」、「消える」はいずれも自然現象であり、その現象が起こるには一定の時間経過が必要である。つまり、瞬時に「Aが生じる」ことが真かどうかはそもそも判断できないのである。カルノーサイクル、惑星システム、代謝システム、人の一生などは、一定の時間の幅を利用して仕事をするシステムであり、瞬間だけ切り取っても、それが何なのかは判明しないのである。実際、上記のようなシステムは時間が経過することをうまく利用して作用し、作業し、生きるような仕事を実行しているのである。それは時間を利用した巧みな適応方法であり、それによって存続してきた仕組みであり、存在様式なのである。生物にとっては「生きる」という適応がどの生物種にも共通していることを考えれば、生物は時間の経過、時間の幅や間隔を巧みに利用して生存を維持・持続してきたのである。このような見方がベルクソンの考えと違うことは自明のことだろう。意識の世界の持続ではなく、物理世界や生物世界の中に持続を利用して仕事を実行し、それによって世界に適応した存在が数多く実在していることである。
 「これは本である」という場合の本は一定期間本であり、今がその期間であるなら、その期間中のどの瞬間も本のままであると考えられている。それと同じように、「これは生きている」はある期間中のどの瞬間も生きていると言えるのだろうか(この問いに私たちはイエスと答えるのだが…)。どの瞬間の本の画像も本だが、どの瞬間の生き物の画像も生きているだろうか。そう問われると私たちは途端に自信がなくなる。本は確かに静止画像でも本だが、生き物の静止画像は生きていると言えるのだろうか。心配になった私たちにできることは瞬間の画像だけではなく、一定期間の動画で生きていることを確認することだろう。むろん、手で触ったり、細かく観察してみたりしても、生き物かどうかは調べることができる。いずれにしろ、動画も観察も瞬時ではなく一定の時間を要するということである。これが肝心な点で、「これは生きている」は瞬時の現象でも事実でもなく、生きる仕組みが働いている時間を要する時間幅をもった現象、事実なのである。ここに登場する時間の幅もベルクソンの持続ではなく、物理世界と相互作用する際の持続である。
 このように見てくると、瞬時に成り立っている事柄は「私は日本人である」のように定義によって言われたものであって、素粒子、原子、分子のような基本物質でさえその同定に観測機器を使う場合には、時間間隔が必要であり、首尾よく定義がなされた後に瞬時の原子も存在可能になるのである。システムによって存在している対象となれば、そのシステムの働きが重要となり、働くのに必要な時間は幅がなければならないことになる。
 時間の幅を使って決められ、特徴づけられた対象の存在は、その後の理論的な定義によって瞬時にも存在できるようになる。これが巧みな点で、理論化は時間についてもなされる。つまり、理論的な瞬時の存在が仮定されることによって、対象が瞬時に存在することも仮定されるのである。だから、私たちは見ていなくても、観測していなくても、対象の存在が二つの異なる時点で確認できれば、その間の時間、その対象は持続すると認められるのである。
 このような主張はベルクソンのそれによく似ている。彼は瞬間を否定し、「持続」を持ち出し、それによって生命をロマン主義的に賛美し、物理化学が見失ったものに光りを当てたと言われるのだが、彼の「持続」は、今風に言えばシステムをもつ対象は瞬時の同定ができず、持続する中でこそその真の姿を捉えることができるという主張の鍵になった概念だった。「生きる」ことは持続の中で捉えてこそ理解できるであり、点からなる線として考えられた時間によっては捉えることができないと彼は直観したのだった。
 ベルクソンの直感的な直観を冷めた眼で見るなら、「時間を巧みに使った適応が時間の幅の利用にあった」ということであり、それが進化を創造的なものにした基本的な工夫だったのである。時間を利用するとは、時間の幅を単位にした反復システムの創造であり、それがいずれも直線的な時間概念の仮定と相反するというのがベルクソンの見立てだった。だが、今の私たちはそれとは違う立場に立っている。意識的だから創造的なのではなく、時間の幅を物理世界で使うという適応こそが創造的なのである。