記憶の干渉を起こすもの

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  まずは復習。私たちの記憶は、情報の記銘、保持、再生の三段階からなる。加齢による物忘れは再生の機能が低下することによって起こり、覚えていることを思い出すまでに時間がかかるようになる。そのため「約束したこと」や「通帳をしまったこと」自体は覚えていて、「自分が忘れていること」には自覚がある。認知症の物忘れでは、「約束したことを覚えていない」、「通帳をしまったことを忘れる」といった、「そのこと自体」を覚えていられない。これは記銘ができなくなることによって生じる。
 学習した内容は記憶痕跡として残るが、それが減少し、消失することが「忘却(forgetting、amnesia)」。 忘却の説明には、減衰説(decay theory)、干渉説(interference theory)、手掛かり説 (cue dependent theory)、抑圧説(repression theory)などがある。
 頭の中に形成された記憶痕跡は時間が経過するとともに薄れるというのが減衰説。100 年以上前にエビングハウスは記憶が時間の経過とともに変化する過程を「忘却曲線(forgetting curve)」を使って説明した。彼の実験では、健常人を対象に、子音・母音・子音からなる「jor, nuk, lad」といった無意味な音節綴りを記憶させて、時間経過に従ってその再生率を測定し、記憶の保持と忘却の過程を研究した。その結果は、人間の記憶内容は、記銘した直後は指数関数的に減少するが、次第に緩やかな減少に転じ、一定時間が経過するとそれ以上の忘却がほとんど起こらなくなることを示していた。
 抑圧説は、精神的にショックを受けた出来事や外傷(trauma)が一時的ないし長期にわたって抑圧を与えるため、意識的に想起できない状態になることを主張する。抑圧された記憶は、本人の心理的・行動的側面にさまざまな不適応症状を生じる原因となることが報告されている。
 複数の記憶痕跡が互いに干渉し、記憶痕跡が消失して忘却するというのが干渉説(interference theory)。過去に学習した内容が新たに学習した内容の想起を妨げることが順向干渉(proactive interference)、新たに学習した内容が過去に学習した内容の想起を妨げることが逆向干渉(retroactive interference)である。

 記憶の減衰はエントロピーの増大に似て、理由は不明でも事実その通りだという意味で現象原理のようなもの。それに比べると、「干渉説」はその仕組みを色々考えることができそうである。それをもとに記憶の役割を想像してみよう。
 順向干渉は未来に向かっての干渉、逆行干渉は過去に向かっての干渉と言い換えることができる。例えば、最初に会った人の名前を「田中さん」と記憶したのに、次に会った人の名前を「中田さん」と覚えると、最初の人の名前が「中田さん」になってしまうのが「逆向干渉」、その逆に、最初に会った人の名前が頭から離れず、次に会った人の名前が「田中さん」になってしまうのが「順向干渉」。
 順向干渉は一度覚えたことが強く残り、その後の記憶に干渉し、その結果最初の記憶が忘れられない結果になる。逆行干渉はやはり一度覚えたことが強く残り、それ以前の記憶に干渉し、その結果最初の記憶が忘れられない結果になる。ここには時間の矢が歴然と存在し、記憶する事柄を現在に置くなら、未来を干渉するのが順向干渉、過去を干渉するのが逆向干渉ということになる。つまり、ある事柄が忘れられず、その後の事柄に影響を及ぼす順行干渉、ある事柄が忘れられず、それ以前の事柄に影響を及ぼす逆行干渉ということになる。
 すぐに考えられるのは、順向、逆行だけの一方通行ではなく、両行干渉が頭に浮かんでくる。強烈な出来事に遭遇し、それ以前の記憶、それ以後の出来事に多大な影響を与えることは誰にも起こりそうなことである。その出来事によって過去のことを忘れ、未来のことの学習を妨げることはむしろ当たり前のことではないのか。
 既に幼児期健忘について考えた。その原因として考えられる一つが、記憶の貯蔵に必要とされた神経ネットワークが後に発達したものに飲み込まれ、当時の記憶を思い出せない(検索の失敗)とするものだった。脳の発達と大きく関わり、生後ゆっくりと脳が発達するネズミには人と同じく幼児期健忘があるのだが、生後2,3日で脳が完全に発達してしまう早熟のモルモットには幼児期健忘がないのである。これは言語習得が逆行干渉を起こし、習得以前の記憶を忘れさせたと見ることもできる。
 ハイパーサイメシアの人は見たものすべてを記憶でき、自分の生活の中で起こったどんな些細なことでも覚えていることにも言及した。ジル・プライスは幼児期の頃のことまで思い出すことができ、しかも詳しく覚えている。彼女はあらゆる出来事や日付を驚くほど正確に覚えていた。つまり、彼女の記憶には干渉が存在しないのである。干渉がないので、すべて憶えていることになる。
 言語の習得は大きな干渉を引き起こすように思われる。当然、両行干渉が予想でき、習得以前の記憶が忘れられ、習得後の記憶もその言語に従って記憶される。つまり、記憶は言語にいつでも、どこでも支配、コントロールされることになる。最初に習得された言語は母国語と呼ばれ、その後の別の言語の習得を助けるとともに干渉もすることになる。言語程ではなくても、宗教や思想も強い両行干渉を引き起こしてきた。信仰や信念は記憶に強く干渉し、記憶を編集、改ざんする力をもっている。
 人の一生は忘れられないことによって大きく左右される。記憶が人生を左右するとは、記憶が干渉を起こすことによって大きな効果を果たすことにある。大きな影響を受けるとは、小さな影響を忘れる、些細な影響を無視することを意味している。

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