記憶について知っていることの確認(2)

<記憶するメカニズム>
 19 世紀末にジェームズは、記憶を短期的な一次記憶(primary memory)と永続的な二次記憶(secondary memory)に分類している。一次記憶は現在の短期記憶に近い概念で、二次記憶は現在の長期記憶にあたる。その後、記憶の仕組みと種類に関するモデルが数多く考案されることになる。1958 年にブロードベントは、感覚貯蔵庫と短期貯蔵庫、長期貯蔵庫からなる記憶のモデルを考えた。このモデルでは、入力刺激は最初に感覚貯蔵庫へ入り、容量制約のある短期貯蔵庫へ送られ、最後に長期貯蔵庫へ送られ、そこに貯蔵される。感覚登録器に入力された情報が選択され、感覚記憶として短期貯蔵庫に短期間保存される。短期記憶は短期的に保存されるものだが、短期貯蔵庫の容量は小さく、新しい情報が入力されると古い情報は自動的に消去されてしまう。だが、同じ情報を何度も繰り返して学習すること、つまりリハーサル(rehearsal)によってその中の幾つかの情報は長期貯蔵庫へ送られ、長期間保存される。リハーサルの頻度と選択的注意の強度が大きいほど、短期記憶の情報が長期記憶として定着する可能性が高くなる。
 このようなモデルにおいて短期記憶の情報処理量を増大させる働きが、作動(作業)記憶(working memory)である。作動記憶は、情報を維持しながら同時に処理するシステムの保持と情報処理の並列作業を行なう機能と定義され、種々の認知課題を遂行するために一時的に必要となる記憶と捉えられ、様々な領域においてその役割が強調されてきた。
<忘却するメカニズム>
 学習した内容は記憶痕跡として残るが、それが減少し、消失することが「忘却(forgetting、amnesia)」である。 忘却の説明には、減衰説(decay theory)、干渉説(interference theory)、手掛かり説 (cue dependent theory)、抑圧説(repression theory)などがある。
 頭の中に形成された記憶痕跡は時間経過とともに薄れるというのが減衰説。100 年以上前にエビングハウスは記憶が時間の経過とともに変化する過程を「忘却曲線(forgetting curve)」を使って説明した。彼の実験では、健常人を対象に、子音・母音・子音からなる「jor, nuk, lad」といった無意味な音節綴りを記憶させて、時間経過に従ってその再生率を測定し、記憶の保持と忘却の過程を研究した。実験結果は、20分後には58.2%が記憶していたが、時間経過とともに記憶は失われ、1 時間後には44.2%、9時間後には35.8%、1日後には33.7%まで減少し、その後は記憶の低下が緩やかになり、6日後は25.4%、1 ヶ月後は21.1% が保持していた。つまり、人間の記憶内容は、記銘した直後は指数関数的に減少するが、次第に緩やかな減少に転じ、一定時間が経過するとそれ以上の忘却がほとんど起こらなくなることを示していた。
 この減衰説に対して、複数の記憶痕跡が互いに干渉し、記憶痕跡が消失して忘却するというのが干渉説(interference theory)。過去に学習した内容が新たに学習した内容の想起を妨げることが順向干渉(proactive interference)、新たに学習した内容が過去に学習した内容の想起を妨げることが逆向干渉(retroactive interference)である。
 抑圧説は、精神的にショックを受けた出来事や外傷(trauma)が一時的ないし長期にわたって抑圧を与えるため、意識的に想起できない状態になることを主張する。抑圧された記憶は、本人の心理的・行動的側面にさまざまな不適応症状を生じる原因となることが報告されている。
<機能局在と健忘>
 1957 年に両側の海馬を含む側頭葉内側部の切除手術を受けた症例HMの観察から、海馬の損傷により短期記憶から長期記憶に移行する機能が失われることが報告された。症例 HMは難治性のてんかんと診断されていた。側頭葉内側部がてんかんの発生源とされ、1953年に両側の海馬、海馬傍回、扁桃体を含む側頭葉内側の部分切除が行われた。症例HMには手術後に重度の記憶障害が起きた。自分の眼前に提示される情報に注意を向けて極く短時間だけ憶えることができ、その情報の内容について話すこともできたが、一旦注意が離れると、数分前の会話内容や誰と話していたかも思い出すことができなかった。これは短期記憶を長期記憶に移行させることができず、そのため出来事記憶をつくることができないことを意味していた。症例HMの手続き記憶は保たれていたので、運動技能を学習して上達することができた。しかし、自分が練習したことを思い出すことはできなかった。症例HMについて詳細な心理学的評価が行われ、海馬の機能と記憶に関する多くの臨床報告がなされた。その後の動物実験の結果や臨床報告から、出来事記憶の障害は、大脳辺縁系の損傷により生じることが明らかになった。
 大脳辺縁系には、「記憶の回路」と「情動の回路」がある。記憶の回路は海馬体−脳弓−乳頭体−視床前核−帯状回−海馬という閉鎖回路である。回路内のどの領域でも両側性に損傷されると健忘が生じる。記憶をこのようなネットワークの損傷として考えると、海馬に限らず脳の様々な部分の損傷で記憶障害が見られるという事実を説明することができる。しかし、ネットワーク内の損傷部位による症状の違いを説明することが難しくなる。記憶がネットワークの働きで形成されるなら、そのネットワーク内のどこが損傷しても、ほぼ同程度の記憶障害が出るはずだからである。このように、記憶の機能分化論とネットワーク論に関して、それぞれ単独では記憶障害を説明できないことがわかる。情動の回路は、扁桃体前頭葉眼窩皮質、マイネル基底核視床背内側核がブローカ対角帯核を介して海馬と連絡する。情動の回路は、情動記憶と関係しているらしく、扁桃体の機能と記憶の強化との関係は最近注目を集めている。
 「健忘(amnesia)」は認知症まで含めて記憶障害の広い意味で使われている。健忘の内容で分類すると、健忘を呈する期間内のすべての出来事を想起することが困難な状態である「全健忘(global amnesia)」と、思い出せる情報と思い出せない情報が混在する状態「部分健忘(partial amnesia)」に分けることができる。また、時間軸で捉えると、脳損傷を受けた時点以降の記憶が抜け落ちる状態、すなわち記銘困難な状態が「前向性健忘(anterograde amnesia)」、一方脳損傷を受けるより以前の出来事を思い出すことができない状態、つまり想起できない状態が「逆行性健忘(retrograde amnesia)」である。
 100 年以上前から「逆向性健忘」における記憶の減衰の傾向が挙げられている。
(1)新しい出来事から古い出来事へ
(2)複雑なことから単純なことへ
(3)知的に習得したことから体験的に記憶したことへ
(4)感情的能力から知的能力へ
(5)慣れないことから習熟したことへ
 また、記憶障害は、器質的脳損傷に起因する記憶障害(器質性記憶障害)と心因或いは精神疾患に関連した記憶障害、すなわち「解離性健忘(dissociative amnesia)」或いは「解離性障害(dissociative disorders)」に分類される。器質性記憶障害には、アルツハイマー病、血管性認知症、前頭側頭型認知症レビー小体型認知症などを含む認知症ビタミンB1チアミン)欠乏症に起因するウェルニッケ・コルサコフ症候群、頭部外傷に起因する外傷後健忘、くも膜下出血脳梗塞などの脳卒中、脳腫瘍が含まれる。解離性健忘は、「重要な個人的情報の想起が不可能になり、それがあまりにも広範囲にわたるため通常の物忘れでは説明できない状態」である。解離性健忘である全生活史健忘は、自伝的記憶が保持されているにも拘らず想起できない状態と定義され、「自らのアイデンティティの喪失」となる。だが、それは選択的な逆行性健忘であり、前向性記憶は保たれ、発症後の出来事記憶は正常に近く、知能も保たれ、画像診断では器質的病変が否定されることなどが特徴である。
 
 私たちが記憶について知っていることは決して多くない。だが、「憶える」ことと「忘れる」ことがそれぞれ互いの逆の過程ではなく、忘れることが一方的に避けるべきことではないことは相当にわかってきた。忘れることが自由にできるAIはどのようにして可能なのか、既に色々試されているに違いない。健忘症のAI、老人のAI、認知症のAIなど、記憶障害をもつAIモデルがつくられ出している筈である。