記憶について知っていることの確認(1)

 まずは基本のおさらい。記憶は、
登録(registration)、保持(retention)、想起(retrieval)、
の三つの情報処理過程から成り立っていると述べてきた。最初の過程は情報を符号化(encoding)して入力するもので、「記銘(memorization)」、「符号化」などとも呼ばれる。次に、情報を保持する過程は「貯蔵(storage)」とも呼ばれ、貯蔵・保持される記憶情報の断片が記憶痕跡(memory engram)である。記憶痕跡は、記憶と学習のメカニズムを理解するために想定され、当初は仮説的な概念だったが、今では生化学的な変化として脳の中に存在すると考えられている。そして、記憶が貯蔵されると神経回路がつくられ、その回路に繰り返し刺激(情報)が伝わることによって、回路の情報伝達の効率が強化される。最後に、貯蔵されたデータを想起する過程は「再生(recall)」、「検索(access)」とも呼ばれる。
 コンピュータならば、「登録・記銘」はデータの入力作業、「保持・貯蔵」はデータの保存でハードディスクに相当し、「想起・再生」はデータを検索して取り出す機能に対応している。「再生(recall)」は一旦記憶した単語や情報を記憶の中から再生成する手続きであり、「再認(recognition)」は、学習した単語や情報と学習しなかったそれらを区別する手続きである。以上が記憶の基本的概念で、脳とコンピューター、記憶と情報処理が密接に結び合っている。
 次はよく耳にする記憶の分類。記憶は過去を回想、想起するときの時間の短い順に、
即時記憶、近時記憶、遠隔記憶、
に分類され、即時記憶は数秒から数十秒の記憶、近時記憶は数分・数時間から数か月の記憶、遠隔記憶は数年から数十年前の記憶である。心理学では、即時記憶が短期記憶(short-term memory)、近時記憶と遠隔記憶は長期記憶(long-term memory)と呼ばれてきた。長期記憶に含まれる近時記憶と遠隔記憶は相対的なもので、その長さが明確に決まっている訳ではなく、個々に登場する時間は物理的な時間と同じではない。さらに、長期記憶は、
陳述記憶(declarative memory)、非陳述記憶(non-declarative memory)、
に二分される。知識や経験など記憶内容がイメージとして再現でき、言葉で表現(陳述)できる記憶が陳述記憶で、陳述記憶は意識できる記憶、すなわち本人が意図的に学習して習得する知識や情報であり、顕在記憶(explicit memory)とも呼ばれる。時間と記憶の最も単純な関係が以上のようなことである。
 1972年にタルビングは、主に言葉で表象できる知識や情報からなる陳述記憶を命題記憶(propositional memory)と呼び直し、その命題記憶を個人的な体験の記憶に対応する「意味記憶(semantic memory)」と世界に関する知識に対応する「出来事(エピソード)記憶(episodic memory)」に分けた。例えば、「スケート靴」という言葉から想起される「入学した時に両親がスケート靴をプレゼントしてくれた」という記憶や、そこから連想される具体的な思い出が出来事記憶である。単一の情景だけでなく、時間的につながりのある思い出やそれに付随する感情や情動も出来事記憶に含まれる。さらに、様々な記憶を回想できることから、出来事記憶は極めて恣意的で、融通無碍な記憶と考えることができる。意味記憶は、知的記憶(intellectual memory)とも呼ばれ、専門用語や客観的な事実・情報など意図的な学習によって習得される一般的な知識や教養の記憶である。タルビングは、出来事記憶を意味記憶と対比させて捉えた。出来事記憶は常に新たな刺激・情報が入力されることから、可変的で脆く、保存された情報が変容し検索が困難になることが常にあり、加齢によって変化・減衰しやすい。これに対して意味記憶は加齢の影響を受け難い。また、出来事記憶は情報を時間軸上にプロットして保持するのに対して、意味記憶は意味の近い情報は意味空間的に近くに配置され、意味の遠い情報は意味空間的にも離れて配置されると考えられている。出来事記憶では、知覚情報がそのまま記憶されるのに対して、意味記憶では知覚情報を一旦解釈して記号化された情報としてしか記憶されないことがある。アルツハイマーの患者は、数週間前に病院を受診したことや前日に知人に会ったこと、そして数分前に薬を飲んだことなどの最近の出来事記憶が欠落する。
 暗黙知と通常の命題知といった知識についての区別から、記憶においても二つの区別が同じように主張できるのか、記憶のもつ区別が知識の区別を生み出したのか、そう簡単に明確な答えは出そうにない。
 意識の中に再現されなくとも自然に身体が動くような技量や無意識の経験など、言葉で表現できない記憶は非陳述記憶と呼ばれる。非陳述記憶は、本人が明確に意識できない記憶で、意図的に想起もできないが長期的に保存されている無意識的な記憶であることから、潜在記憶(implicit memory)と呼ばれている。非陳述記憶は、さらに手続き記憶(procedural memory)、プライミング(priming)、条件付け (conditioning)に分類される。手続き記憶は、非陳述記憶と同義語で使われる場合も多い。手続き記憶も加齢の影響を受け難いと考えられており、認知症患者でも自動車や自転車の運転や裁縫など若い頃に修得した技量・技術はなかなか失われないことが多い。
 タルビングは手続き記憶と命題記憶の相違を次のように説明している。この説明は私たちの常識にほぼ合致するだろう。
・手続き記憶はその技能を必要とする行為や課題を遂行するときだけ表示されるが、命題記憶の表示方法はいつでも可能で、かつ多様である。
・手続き記憶に真偽の区別はないが、命題記憶は真偽が常に問題となる。
・命題記憶のもつ情報は命題の形式で表象されると考えられているが、手続き記憶の表象は命題の形式をもっていない。
・手続き的知識や情報は練習を繰り返すことによって取得されるが、命題的知識や情報は一回の機会によって取得されることがある。
・手続き記憶に基づく行為は考えなくても自動的に遂行されるが、命題記憶に基づく行為には意図や注意が必要である。
・命題記憶で検索した情報や知識を他人に伝えるときには言語やその他のシンボルが使われるが、手続き記憶は非シンボル的な行動によって伝えられる。
 上の説明の「記憶」を「知識」で置き換えてみると、ほぼ同じように成り立つことがわかる。改めて、記憶と知識が概念的に親密な関係にあることが見て取れるのではないか。
 次は条件付けの復習。条件付けは、古典的条件付け(classical conditioning)とオペラント条件付け(operant conditioning)に分類される。古典的条件付けはレスポンデント条件付けとも呼ばれ、「パブロフの犬」の実験で知られるように、犬の口に餌を入れるのと同時にブザーを鳴らすような条件を設定し、これを繰り返し経験させると、犬は餌が口に入らなくてもブザー音を聞くだけで唾液を分泌するようになる。これが古典的条件付けで、唾液が分泌されると云う現象はレスポンデント行動と呼ばれる。オペラント条件付けは、道具的条件付けあるいはオペラント学習(operant learning)とも呼ばれ、オペラント(operant)と云う言葉は、操作する(operate)から派生し、「働き掛けるもの」 という意味である。古典的条件付けは、与えられる刺激に自然に反応する図式であるのに対して、動物が自発的に環境に働き掛けた結果、動物の行動が変化することがオペラント条件付け。そして、その後の行動の頻度に影響を与えることが強化で、頻度が増えるときが「正の強化(positive reinforcement)」、頻度が減るときには「負の強化(negative reinforcement)」である。
 非陳述記憶は、学習という観点から連合学習と非連合学習に分類されることがある。連合学習には、先に述べた古典的条件付けとオペラント条件付けが含まれ、非連合学習には慣れ(habituation)と感作(sensitization)が含まれる。慣れは同じ刺激を何度も反復するうちに反応が徐々に弱くなりやがて消失する現象で、逆に、感作は繰り返し与えられる刺激に対する反応が徐々に亢進する現象である。また、時間軸の観点から、過去の体験に関する記憶或いは過去の記憶を回想記憶(retrospective memory)とよび、現在進行中の出来事に関する記憶を作動記憶(working memory)と呼び、未来の予定に関する記憶を展望記憶(prospective memory)と呼ぶ。電話番号を即座に憶えるなどの一時的な情報保持機能が作動記憶であり、日本語でも「ワーキングメモリー」が使われている。これらの言葉遣いから、コンピューターの情報処理操作に関する記述と私たちの記憶を巡る脳内活動との親密な対応を見て取ることができる。
 次は私たちが普通に記憶と呼ぶもの。自伝的記憶(autobiographical memory)は、それまでの生涯を振り返って想起される私自身に関する情報、経験、出来事の記憶を意味し、記憶の分類に従えば出来事記憶である。自伝的記憶の機能は個人がもつ機能として重要な性質を持ち、人格の同一性(アイデンティティ)の基盤を生み出している。自伝的記憶は、経験頻度や経験心像を伴うか否かによって、個人的記憶(personal memory)、概括的な個人的記憶(generic personal memory)、自伝的事実(autobiographical facts)、自己スキーマ(self-schema)に分類される。私たちは、生涯すべての時期の記憶を均等にもつ訳ではなく、通常は三歳以前の記憶をほとんど思い出すことができない。これが幼児性健忘で、既述のものを参照してほしい。また、20 代の大学生が自伝的記憶の想起を行うと、昔の出来事ではなく、より最近の出来事を思い出す頻度が高くなる。これに対して、高齢者が自伝的記憶を想起する場合には、青少年期の出来事の想起数が多いことが知られている。若い頃の記憶がより多く想起される理由は、少年期から青年期に起きる出来事は新奇で弁別され易いこと、社会発達的には青年期は自己のアイデンティティーが確立される時期に当たること、さらに思春期は個人的な認知能力が最も優れていることなどの説明がなされている。
 この辺までが記憶について私たちが知っている基本的な概略と言っていいだろう。これで記憶がわかったと思う人はまずいまい。人がもっているそれぞれの記憶とその記憶についての知識は別物で、記憶について知り、それを有効に使うにはさらにどのような知識が必要なのか、強い好奇心の対象になっている。