記憶に関する二例

 超人的な記憶力を生得的にもつことは私たちには夢であるように見えるのですが、スーパーマンにはスーパーマンの悩みがあるように彼らにも似た悩みがあるようです。
(1)サヴァン症候群
 サヴァン症候群は、自閉症スペクトラムなどの発達障害がありながらも突出した能力を持った人たちのことを指しています。メディアを通じた驚異的サヴァンの紹介で天才というイメージを持ちがちなのですが、実際には特別な能力をもっていても、日常生活には困難があるという人が多いのです。この症状をもつ人たちはダウン症の発見者イギリスの医師ジョン・ダウンによって当初「イディオ・サヴァン」と名付けられました。「イディオ」は「白痴」、「サヴァン」は「学者、博学」ですから、現在では単にサヴァン、またはサヴァン症候群と呼ばれています。自閉症スペクトラムのある人の多くが男性であるのと同じく、サヴァン症候群のある人も多くが男性で、言語や計算を司る大脳の左半球に損傷があることが指摘されています。
 サヴァン症候群と言っても、その能力は多岐に渡ります。何冊もの難解な本を一読しただけで覚えられたり、記憶した記述を暗唱したり逆から読み上げたりできる人もいます。でも、記憶した内容を本人が理解しているとは限らないのです。音楽教育を一度も受けたことがないのに、一度聞いただけの曲をそのまま弾けたり、何千曲も暗記したりすることができたりする人もいます。一度見ただけの写真をそのまま寸分の狂いもなく描ける人もいます。動いている動物をみて、筋肉の様子を記憶しデッサンすることができ、ダ・ウィンチやミケランジェロ並みの人もいます。「1996年3月30日は何曜日?」といったカレンダー計算が瞬時にできる人が多く見られるのがサヴァン症候群の特徴の一つ。また素数に敏感な人が多く、どんな複雑な計算も暗算でできてしまう人もいます。さらに、数字や文字に特別な色や形が伴って見える「共感覚」と呼ばれる感覚を持つ人もいます。
(2)ハイパーサイメシア(超記憶症候群、hyperthymesia)
Jill Price (born December 30, 1965) is an American woman who has been diagnosed with hyperthymesia. She was the first person to receive such a diagnosis, and it was her case that inspired research into hyperthymesia. She is a co-author of the following book on the subject.
Price, J. and Davis, B. 2008, The Woman Who Can't Forget: The Extraordinary Story of Living with the Most Remarkable Memory Known to Science—A Memoir, Free Press
 ハイパーサイメシアの人は見たものすべてを記憶でき、自分の生活の中で起こったどんな些細なことでも覚えています。さらに、幼児期の頃のことまで思い出すことができ、しかも詳しく覚えています。超記憶の症例が最初に報告されたのは2006年のこと。プライスはあらゆる出来事や日付を驚くほど正確に覚えていて、上述のサヴァン症候群にも似た症状はあるものの、サヴァン症候群の記憶能力が限定的であるに対して彼女の場合は全ての場合を記憶してしまいます。カリフォルニア大学のジェームス・マッカヴは、5年をかけて彼女にインタビューし、その能力を試して、発表してきました。2008年に上記の本『忘れられない脳-記憶の檻に閉じ込められた私』を回顧録として出版しました。
 超記憶症候群の人は全世界で20人程と言われています。そのため、この症状がどのようなメカニズムで起こるのか正確にはわかっていません。その日が何曜日か、14歳のその日に自分がなにをしていたか、すぐに思い出すことができるジル・プライスなのですが、学校では超記憶をうまく活用することができず、学校の勉強の内容を機械的に丸暗記するのには非常に苦労したと述べています。超記憶は単に起こったことすべてを覚えているだけでなく、それがいつ起こったかを正確に思い出すことができます。もう一人の超記憶の持ち主である男性に2003年3月19日は何曜日かと尋ねると、すぐに水曜日という答えが返ってきました。その日の天気も、起きてから寝るまでその日に自分がなにをしていていたかも言うことができるのです。
 どのようにしてそれほど鮮明に日付や出来事を思い出せるのかと訊かれると、ヘルマンはその場面が頭の中に浮かんでくるのだと言います。また自分がその場にいて、その場面を見ているように、ありありと蘇ってくるのだそうです。とくになにかの記念日が巡ってくるときは、自分がなにをしていたか、天気がどうだったか、誰と一緒だったか、次々に蘇ってくると言います。ヘルマンは自分の記憶のほとんどを自分の目を通した一人称で見ています。たとえ目が見えなくても、それがまるで今現在起こっているかのように表現できます。「あらゆることを思い出せるけれど、過去のことを考えるときは、まるでその状況に自分が戻っているような感じがする。それが起きたときと、それを自分が思い出すときの差はない」と語ります。
 2010年にインタビューを受け、記者が彼女の過去の辛かった日のことにふれたとき、激しい感情を見せました。転校しなくてはいけないことがわかった1986年の辛い日のことを持ち出されたとき、オーエンにはあの日と同じ感情が蘇ってきたのです。もう何年もたっているのに、その感情は実に鮮明でした。オーエンは超記憶の負の面も語っています。「このような極端な記憶力をもっていると、孤立感を感じることがあります。誰も話せない言語を自分が流暢にしゃべっているような気持ち、あるいは自分がうろうろしていても、まわりの誰もわたしに気がついていないみたいな感じがします。」プライスの話の聞いた認知心理学者のゲイリー・マーカスは、彼女が過去の記憶に縛られていると指摘します。超記憶をもっている人は、日付や出来事のことばかり考えてしまい、強迫性障害の人と似たような傾向があるというのです。
 マッガウらはこれまでにプライスのような特殊な記憶力を持つ人を米国で約50人見つけ、その記憶力の源泉を調べています。彼らは学習能力が高いのではなく、むしろ学習したことを保持する能力が高いことがわかってきました。私たちは通常、ある日に起きた出来事を、数日は詳しく覚えていますが、1週間も経つと記憶は薄れ、その日の朝に何を食べたかも思い出せなくなります。ところが彼らは数十年単位で記憶を保持し、まるで昨日のことのように思い出せます。彼らは丸暗記が得意な訳ではなく、円周率を何千桁も記憶できる訳でもありません。その記憶力は努力して得たものでもなく、生得的な能力です。記憶できるのは直接に体験したことに限られ、特定の日付に結びついています。
 マッガウらは、このタイプの記憶力を「非常に優れた自伝的記憶(HSAM)」と呼びました。この人並み外れた自伝的記憶をもつ人の脳をMRIで調べたところ、複数の脳領域が通常と異なっていることがわかりました。一つは、側頭葉と前頭葉をつなぐ神経線維束(鉤状束)の接続がよく、情報の伝達効率が高いとみられることです。この鉤状束が損傷すると、自伝的記憶が損なわれるとの報告もあります。もっともこうした構造が人並み外れた記憶力をもたらしているのか、それともいつも高度な記憶力を使っているために脳に変化が生じたのか、その因果関係はまだわかっていません。
(Mcgaugh, James L., LePort, Aurora, 'Remembrance of All Things Past,' Scientific American, 00368733, Feb2014, 310, 2)