閑話:私たちは知り、憶え、忘れ、そして思い出す

 人は学習する。人は何かを知り、憶える。人は憶えたものを知識や記憶として保ち、使う。それだけなら雑音は聞こえないのだが、人は忘れる。思わず忘れるだけでなく、時には意図的に忘れようとする。自ら憶えたくせに、人は忘れる。時にはそれが不好都合を引き起こし、時にはそれが快楽や苦痛となる。忘れることが行き過ぎるなら人格解離が起こり、知識も記憶も意味を失うことになる。
 人は学習する。だが、人が憶え、そして忘れることが学習に含まれているのだろうか。そもそもそれらを表現する語彙はあるのだろうか。自らの知識を手に入れ、そして忘れることは何と表現できるのだろうか。私が知り、憶え、忘れるという一連の心的行為と物理学や生物学の知識とは随分と違うように見える。私は私が忘れることを知り、それを受け入れているが、科学知識の忘却はミスでしかない。私には忘れることはフォルテピアノのモデレーターのようなものかも知れないが、科学的にはあくまでミスや雑音でしかない。
 人には時間の矢が運命として存在するだけでなく、それを受け入れたときにどのような変化が起きるのかを学習、記録、記憶などの中に存在する忘却やミスを通じて明らかにしてみたいと思うのは私だけではないだろう。
 忘れることが考慮されない知識、知ることだけの知識が科学的知識のエッセンスだとすれば、忘れることが人の知識のエッセンスではないのだろうか。そこで、次の課題は忘れることや想い出すことの生態学とでも呼べるもので、それらを今一度細かく分類し、その実態を掴む必要がある。
 ところで、私たちは未知のものを忘れることが本当にできないのだろうか。憶えることが能力なら、その能力を失った人は未来の何事も憶えることができず、忘れることは論理的にあり得ないことになる。これが認知症の患者の形態ならば、彼らは忘れないことになる。だから、忘れることができるためには知り、憶えることができなければならない。
 憶える、そして忘れるという因果的な順序は科学的な理論や説明にはない。しかし、それは私たちには自明の事実であり、因果性の原理は知る、忘れるといった私たちの認知行為にも成り立っているのである。
 知ることを撹乱するものとして、「忘れる、間違える、誤解する、隠す、嘘をつく」等々が考えられてきた。それらは否定的な、避けるべき事柄と思われてきたが、それらは知ることを行為として捉える際には不可欠の事柄なのである。これら動詞はいずれも状態の記述ではなく、行為の記述に限りなく近い。行為を表現していることは、そこに情報の遣り取りやコミュニケーションが想定されていて、相手がいることによって成り立つ状況を自ずと表現している。一人の認識論から多数の認識論への転換をここに見ることができる。情報論やコミュニケーション論は本来行為の認識論であるべきなのである。
 実在の記述から認識の表現へ、そしてさらに行為の表現へと状況を展開することは、知識の物語化であり、時間の矢を明確に想定した知識の使用の局面に関する議論なのである。そこに一人の神擬き認識論から多数の人間認識論への転換を見ることができる。
 知り、憶え、忘れることの営み、つまり、知ったり、憶えたり、忘れたりを繰り返すことが日常の心の振舞いである。それをしっかり理解するためには従来の認識論(知識の正当化、知識の成り立ち)では不十分で、知識を獲得し、知識を使うことを情報の生成と流通、コミュニケーションの仕組みを通じて理解する必要がある。
 人間的な知識は「忘れたことを知っている、何を忘れたか知っている、どの程度忘れているかわかる、忘れの度合い、知りの度合いを察する」といったことが重要な役割を演じる知識である。だが、「知る」が認識や知識の原点にある述語であれば、「忘れる」は認識や知識にとってどのような役割を果たす述語なのか。知識と記憶の関係はまだ不可解な点を多く持っている。
 「忘れる」ことは忘れることができない重要な心的働きなのである。