忘れること

 私のような年齢になると「忘れること」が日常茶飯事になる。「知ること」は意識的、意図的にできるが、忘れることはそうはいかない。憶えることが意識的にできるように、意識的に忘れることができたら嬉しい限りなのだが、憶えることの反対操作で忘れることが成り立ってはいないようなのである。そこで、暫く「忘れること」について妄想を巡らしてみようと思う。
 知識を整理するなら階層的に整頓するのが普通だが、私たちの日常経験は明らかに階層的ではない。個々の事柄を集めただけの世界は自分を中心に置いた意識世界とは大きく異なり、視点や観点はどこにもない。樹形図、分類構造などは知識の特徴的な形式であり、知識を操作するには不可欠の形式になっている。だが、それら情報処理の仕組みのどこにも忘れ方の分類はない。知ると忘れるの間にどのような関係があるのか、それが私の関心事なのだが、まずはそのような例の一つとして認知症の基本だけを確認しておこう。

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 記憶力は20代をピークに次第に減退するが、記憶力以外の能力は様々な経験学習を通じて20代以降も成長し、知能全体では50歳頃まで伸び続ける。だが、多くの人は60歳を過ぎると記憶力に加えて判断力や適応力にも衰えが出てきて、脳の機能の老化が始まる。記憶力の老化が進行し、物忘れが次第に多くなるが、この物忘れは加齢に伴うもので、認知症の症状とは違っている。人は誰でも加齢と共に脳の機能が衰え、年相応の物忘れがみられるのである。
 私たちの記憶は、(情報を学習し覚える)記銘、(情報を記憶として蓄える)保持、(情報を思い出す)再生の三段階からなっている。加齢による物忘れは再生の機能が低下することによって起こり、覚えていることを思い出すまでに時間がかかるようになる。そのため「約束したこと」や「通帳をしまったこと」自体は覚えていて、「自分が忘れていること」には自覚がある。日常生活に支障はなく、認知症のような病状の進行や記憶以外の障害は見られない。
 認知症の症状による物忘れは、「約束したことを覚えていない」、「通帳をしまったことを忘れる」といった、「そのこと自体」を覚えていられないこと。これは記憶の初期段階である記銘が出来なくなることによって生じる。例えば、アルツハイマー認知症では少し前の経験そのものを忘れてしまうため、何度も同じことを尋ねるといったことが生じる。特に、食事や外出などのエピソード記憶が障害されやすいと言われている。
 一方、楽器や裁縫、スポーツや家事など、身体技能を通した手続き記憶は障害されづらいと言われている。また、「覚える」機能には支障をきたすが、再生することは可能なため、昔のことを思い出すことができる。
 アルツハイマー病は進行性の脳の病気で、現在の治療では治癒することができない。記憶や思考能力がゆっくり障害され、最後には単純な作業もできなくなる。全認知症の約半数がアルツハイマー認知症である。その症状には脳の細胞が壊れて起こる中核症状と、行動・精神症状とも言われる周辺症状がある。患者には病気であるという認識がない。中核症状の代表は記憶障害。最近のことが覚えられず、同じことを何度も聞いたりする。病気が進むと昔の経験や、学習した記憶も失われる。他にも、今日がいつか、今どこにいのかがわからなくなる(見当識障害)、順序立てて作業(料理など)ができない(遂行機能障害)、見たものが何かわからない(ご飯を見ても食事とわからない)(失認)などがある。中核症状が出てくると、今までできたことができなくなったと落ち込んだり、周囲に怒鳴り散らす人もいる。居場所や地図が分からず徘徊もみられる。「物を盗られた」、「夫が浮気している」などの妄想が出ることもある。睡眠障害も伴うと昼夜逆転し、夜になるとさらに妄想や幻覚などが加わって出やすいのが夜間せん妄。このような症状がゆっくり進行していくが、時間によって、日によって、接する人によって症状は大きく変化する。
 アルツハイマー病の脳組織にはアミロイド斑や神経原線維変化が見られる。さらに、脳の中の神経細胞のつながりがうまくいかなくなっているのが特徴。脳の中で記憶に関係する部位にアミロイド、神経細胞の中にタウという異常たんぱくが蓄積し、はじめに海馬が萎縮して、最後には脳全体が萎縮する。このような変化は症状が出る10年以上前から起きていると考えられる。約10%の家族性アルツハイマー病では遺伝子の異常が判明してきているが、ほとんどの患者の異常たんぱくが蓄積する原因はわかっていない。
 残念ながらまだ根本的な治療法はないが、この病気で脳内に不足している物質を補う薬物治療で、記憶障害の進行を遅らせることが可能になってきた。その他に異常な行動に関しては抗うつ剤などが使用される。現在異常アミロイドが溜まらないようにする治療が開発されつつある。

 忘れることは必要で、何でも憶えているというのは確かに苦痛でしかない。だが、忘れ過ぎる、随意的に忘れることができないというのも生活に支障をきたすだろう。そこで、上手に忘れる、適度に忘れることが求められるのだが、これは何でも知ることとは両立しないように思える。適切に知る、節度をもって知ることが適度に忘れることとどのように関わるのか、そんなことが気になり出す。いずれにしろ、忘れることの哲学を忘れずに追求してみよう。