閑話:斜めから見て、正しく知る

 「斜めから見る」とは、物事を素直でない捉え方をすることで、偏った見方をする、穿った捉え方をする、ひねくれた考え方をするなどと同じような意味で使われています。文字通りに斜めから見るのではなく、「斜め」も「見る」も比喩的な意味を込めて使われるのが普通です。そこで、文字通りの「斜めから見る」と、比喩的な「斜めから見る」との違いを考えてみましょう。
 ところで、「見る」と「知る」は多くの部分で共通の特徴をもっているのですが、異なる部分もあり、二つが一致しない部分をもつことも確かです。それが知覚と認識の違いなどと呼ばれてきた違いです。「ものを正面から見る、ものの裏を読むことが大切なのに対して、ものを斜めから見ることは視点が歪み、偏ることだ」といった意見をよく耳にします。この文もよくよく見れば、「斜めから見る」の意味に似て、見ると読むが登場し、感覚レベルと認知レベルが意図的に一緒にされていることがわかります。
 「正面から見る(知る)、裏を知る(見る)」の表現が示しているのは、知覚も認識も正しい視点や観点からだけでなく、複数の視点や観点からもなされる必要があるということになるのでしょう。でも、このような表現には「斜め」は入っていません。なんだかつまらない話なのですが、「斜め」が示す歪んだ見方、知り方は嫌われるだけでなく、正しくないのだと言わんばかりです。
 そこで、「斜めから見る」ことを取り上げてみましょう。この表現の意味となれば、歪んだ、偏った、公正でない見方と言うことになるのでしょう。そして、明らかにこの意味は知覚ではなく認知レベルの意味です。では、知覚レベルで文字通り斜めに見るとどうなるのでしょうか。
 遠近法(透視図法)は斜めからの知覚像を下敷きにしていると言っても構いません。遠近法のもつ二つの特徴は、同じ大きさのものでも視点から遠いほど小さく描く、ある角度からの視線ではものはひずんで見える、です。三次元の画像が可能なのは斜めから見た画像があるからです。つまり、私たちが斜めから対象を見て、それをスケッチすることによって奥行のある三次元の画像ができたのです。正面からの画像でも奥行きがわかるのは、正面からの画面の中に斜めの対象が入ることができる場合で、そのことが三次元の対象であることの証左になっているのです。
 知覚レベルでは斜めの画像は歪んでいて、正しい情報を阻害するように見えるのですが、認知レベルでは斜めの画像こそ三次元の存在の姿を与えてくれることがわかります。知覚レベルでは「斜めから見ると歪んだ画像しか得られない」のは確かなのですが、認識レベルでは「斜めから見ないと正しい三次元の画像を手に入れることができない」のもまた確かなのです。ですから、対象を「斜めから見る」ことから始まり、その情報を適切に処理することによって対象を「正しく知る」ことができるという訳です。