閑話:不死と知識

自分の記憶など 憶えていたくもなし 忘れてもよし
世界の退屈極まりない反復が記憶なら 記憶は何の意義もなし

 昨日ジョン・ヴァーリイ(John Herbert Varley)について書いた。彼は私と同い年のアメリカのSF作家。 彼のSF小説が何を示唆しているのか、同年齢の私にはとても気になる。
 ヴァーリイが描く世界では、クローン技術によって自由に変更可能な身体を持った人類が登場し、異星環境に適応する身体と脳内データの転移によって保存可能な精神とが重なり、不死が実現されている。となれば、あらゆる病から解放され、望みの心身がいつでも手に入ることになる。癌だけでなく、解離性同一性障害など障害ではなくなり、アルツハイマーの苦しみは何でもなくなる。だから、それは古来の宗教が願った死の克服、不死の望みの実現だけでなく、究極のSFの一つということになるのだが…
 人は実に厄介なもので、一筋縄ではいかない。人は何度も同じ喜びを経験すると、それは喜びではなくなってくる。となると、最初の二行詩の心境も納得ゆくというもので、「不死の実現は生きる希望を失わせる」という逆説そのものなのである。苦しんでこその人生という格言が意外にも真理なのである。悲しみ、苦しみのない世界は非現実だと言われるが、その真の意味は生きるに値しない世界だからである。
 不死が人生を退屈至極の事柄に変えるだけなら、心理的な害だけなのだが、それは倫理、道徳だけでなく、法そのものを根本から変えてしまう。殺人はもはや罪ではなく、むしろやり直しの出発点に変わるだろう。反復できる人生が可能になり、輪廻思想が再び脚光を浴び、死ぬ自由が議論されることになるだろう。いつでもコピー可能なバラの花が高価でなくなるように、いつでも再生可能な生命の尊厳などどこにもないことになる。生への畏敬は失われ、医師も看護師も自分たちの仕事を見直さなければならなくなるだろう。
 自我と他我の区別、家族と他人、個人と社会や国家のこれまでの伝統的な関係は崩壊し、人は「人間」という生物種とその概念について自問自答しなければならなくなる。欲求は変化し、人生の意義などどこかに吹っ飛んでしまう。社会はどのように変貌するのか、誰にも予想がつかない。
 それらの問いを丁寧に扱い、慎重に答えることこそがSFの最もスリリングで、面白い点ではないのだろうか。だが、それはとても難しく、考えに考えを重ねてシナリオをつくるうちに、物語としての面白みは既述のように消えてしまうこと必定である。ギリシャ時代以来無知が当たり前のように目立つ知識の状態が、知識に関する人間らしさを生み出していて、知り過ぎることがその人間らしさを奪うことに繋がるからである。知れば知るほど人は自らの本性や自らの未来についての関心を失っていく。それこそが神の姦計なのかも知れない。無知は力であり、好奇心や欲求のエネルギーとなってきたのだが、知は無知の力を削ぐことになるのである。

 小説のような物語が最初から前提していることは日常生活の前提と同じであり、人間社会、文化の伝統的な前提でもある。人は死ねば、生き返らない。人は生き物であり、生き物は生存と生殖の二つの組み合わせから成り立っている。これを常識とする限り、色々な物語を想像することが有意義で、面白い内容につながっているのだが、上述のような世界となると、物語自体の面白みはなくなり、未知の結末に魅了されることがなくなるのである。知識と技術の究極の行き着く先は物語が意味を失い、好奇心が行き場を失う地点なのである。したがって、思考実験としてのSF、知的冒険としてのSFといった表現が意味を失い、誰もSFになど興味をもたなくなるのである。

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