我流の哲学史雑感(13)の最後の疑問

「我流の哲学史雑感(13)」の最後は「アプリオリな総合判断」はそもそも可能なのだろうか。」で終わった。その解答を考えようというのが以下の内容である。 
 いつでも真の文はトートロジー(tautology)。「今日は晴れているか,あるいは晴れていないかである」という文は、「今日は晴れている」と「今日は晴れていない」が「あるいは」という接続詞で結ばれ、「PあるいはPでない」という形をしている。この文は情報を何も伝えてくれないが、誤ってはいない。それどころかいつでも真である。いつでも真なるトートロジーには「PかつPでないことはない」や「Pならば、P」がある。
 「どんな独身者も結婚していない」という文はいつでも真である。だが、この文はトートロジーではないし、単なる同語反復でもない。しかし、独身と結婚していないことが同義であることを知っていれば、同じものを代入しても結果は同じという原則に従って、「どんな独身者も独身者である」というトートロジーが得られる。このような「広義の」トートロジーは「分析的(analytic)」と呼ばれ、分析的でない文は総合的(synthetic)な文と呼ばれる。
 トートロジーや分析的な文は私たちの経験に頼って真偽を決める必要がない。一方、総合的な文、例えば「日本の次の首相はAである」は普通の人には予め確信をもって真偽を言うことができない。そこで、分析的な文のように経験を必要とせずにその真偽がわかる文の内容をアプリオリな(a priori)知識、総合的な文のように経験を必要とする文の内容をアポステリオリな(a posteriori)知識と区別することになった。これは分析的,総合的が論理・言語レベルでの区別であるのに対し、私たちがどのように知識を獲得するかという認識レベルでの区別になっている。
 さらに、トートロジーや分析的な文はいつでも真で、その内容は必然性をもっているようにみえ、総合的な文の内容は偶然的で、世界の状況に応じて真偽が変わるようにみえる。そこから、文が指示する事態が必然的、偶然的と分けられることになる。いつでも必ず真である事態が必然的、そうでない事態が偶然的であり、これは存在レベルの区別である。
 こうして、「分析的-総合的」、「アプリオリ-アポステリオリ」、「必然的-偶然的」という三種類の区別が手に入る。「分析的=アプリオリ=必然的」、「総合的=アポステリオリ=偶然的」という等式は独断のまどろみだと断じたのがカントだった。そして、カントは密接な対応関係はあるが、それらが微妙に一致しない点を自らの議論に巧みに利用した。
 カントは経験論と観念論の対立を煽るのではなく、その両者の良いところを取り出して、それらを接続させることによって、観念論のもつ独断を避け、経験論が不可知論に陥らないように総合した。観念論はアプリオリな分析判断を重視し、経験論はアポステリオリな総合判断を重視する。ところが、判断の中にはアプリオリで、総合的な判断がある。例えば、5+7=12という数式。5、7、12という三つの数字には何ら必然的な繋がりがなく、従って、この式は総合的な判断、とカントは考える。一方、この式はアプリオリな真理を表しているとカントは考える。カントによれば、人間の認識の中には経験的でありながら、つまり、総合的な認識でありながら、アプリオリなものがある。そのアプリオリな性格が、人間の認識をヒュームの不可知論から救う切り札になると彼は考えたのである。
*言葉遣いは伝統に従ったが、「文」と「判断」はほぼ同じ意味。「文=判断=言明=命題」と割り切ってしまえば話は実に簡単明瞭である。知識や情報は文や判断で表現され、それらの集まりである。
 カントが「アプリオリな総合判断」に注目したのは、経験から得られる知識=総合的な知識の中に普遍的で必然的な真理があることを論証するためだった。それによって、因果関係についてのヒュームの結論を覆し、人間の経験的な知識は必然的な真理に達することができると主張しようとした。ヒュームはアプリオリな判断は分析的、アポステリオリな総合判断は偶然的と考えた。だが、カントは個別の経験の中にもアプリオリな判断があると考え、それをアプリオリな総合判断と呼んだ。
 カント以前のアプリオリな知識は個別の経験を越えた知識のことで、数学命題もアプリオリな真理とされていた。数学命題がアプリオリなのは、演繹的に証明され、個別の経験とは無関係だからである。分析的な命題はすべて真だが、カントは総合的な命題にもアプリオリなものがあると考えた。人間の経験的認識の中には、外部世界から情報を得る経験的知識と、人間の生得的能力を使って情報を処理して得られる知識がある、とカントは考えた。アプリオリな総合判断の例として数学の命題を挙げる。例えば、「7に5を加えると12になる」という命題は「7を5に加えるべきであるということは、わたしはすでに7と5の和という概念において考えているが、この和が12であるということは、この概念のうちではまだ考えられていなかった」のであるから、この命題は分析的ではなく総合的だと述べる。こうして、カントは「算術の命題はすべて総合的である」と結論する。同じように「直線は、二つの点を結ぶ最短距離である」という命題も総合的な命題。なぜなら、「真っ直ぐなという概念には、量の概念はまったく含まれず、質の概念が含まれるだけだから」。直線の概念に最短距離と言う概念を結びつけるのは、総合的な判断だとカントは言う。
 数学だけでなく、物理学も「アプリオリな総合判断を自らの原理として含んでいる」とカントは言い、質量保存の法則や作用・反作用の法則を例にする。このように、数学や物理学の領域にアプリオリな総合判断が指摘できれば、経験的な領域においてもアプリオリな総合判断があると指摘できる。カントはアプリオリな総合判断が人間の経験的な知識に普遍性と必然性をもたらす根拠になっていて、その結果、ヒュームの不可知論から解放されると考えた。こうして、数学がアプリオリで総合的な知識であり、その数学を使って表現される物理学もアプリオリで総合的な知識を含み、それが因果的世界の必然性を保証してくれ、不可知論に陥ることはなくなる。
 アプリオリ-アポステリオリ、分析的-総合的の区別の組み合わせを変えるだけでこのような結論が得られるというのは狐に化かされたような気がしないでもない。カントに化かされているのかどうか考えてみよう。
 カント以後の数学の発展は、算術の命題を分析的と見做すことになる。算術の方程式が分析的であることはフレーゲによって証明され、二点間を結ぶ最短の線が直線だという主張は非ユークリッド幾何学では否定される。したがって、「アプリオリな総合命題」はないことになり、カントの主張は否定され、ヒュームの懐疑に連れ戻されたということになる。これを詳しく見てみよう。
 カントはアプリオリな真理が二つの領域に見出されると考えた。数学と物理学などの経験科学における経験を組織化するカテゴリーとの二つの領域。数学の命題が総合的でアプリオリなのはそれが時間と空間の直観に依存するからで、カテゴリーが総合的でアプリオリなのはそれらの否定が矛盾を引き起こさないからである。以下、それぞれの代表例のユークリッド幾何学と因果的決定論がカントの言うようにアプリオリなのだろうか。
 ある命題Hが定義上真で、経験的な証拠なしに正当化できる、つまりアプリオリであることをどのように示したらよいのだろうか。どのような観察も命題Hを反証できないように見える場合、通常は最初から命題Hが真にアプリオリとは考えないで、私たちの想像力が欠けていて適切な経験的証拠を見出せないと考えるのではないか。例えば、「過去から未来へ時間が進み、その逆はない」という命題についての物理学的な証拠は見出しにくい。しかし、時間の向きについて考えている物理学者は時間の向きがアプリオリであるとは思わず、単に自分の想像力が欠けているため解決できないと考えるだろう。そのような物理学者は次のような工夫をするのではないか。命題Hだけではなく、命題Hと他の経験的な文の集まりを使って、命題Hだけからは導き出せないような経験的な命題が得られ、それが命題Hと違う内容を主張していたとすれば、命題Hの真偽の判定に参考になり、そこから命題Hが経験的な主張でないということが何を意味しているかわかる。この工夫をカントの場合に使ってみよう。
 既述のように、カントはユークリッド幾何学と因果的決定論アプリオリに真だと考え、どのような観察も二つの反証にはならないと信じていた。そのカントの時代に既に非ユークリッド幾何学が模索されていた。しかし、20世紀に入り、ユークリッド幾何学相対性理論と結びつくと、誤った予測をすることが発見された。因果的決定論も同様に、それが量子力学と結びつくと誤った予測を生み出すことがわかった。上の命題Hがここではユークリッド幾何学,あるいは因果的決定論である。命題Hが誤りを生み出す理由は経験的な相対性理論量子力学の理論にある。実際、相対性理論では非ユークリッド幾何学が、また量子力学では非決定論がそれぞれ成立しているから、命題Hとは異なる内容を主張している。異なるだけでなく、ユークリッド幾何学相対性理論、因果的決定論量子力学は両立しない。相対性理論量子力学を正しいとする限り、ユークリッド幾何学決定論もアポステリオリに偽であることになる。
 こうして私たちはまたヒュームに逆戻りとなるが、それを20世紀に声高に主張したのがポパーで、経験的理論についての「反証可能性」はアプリオリな総合命題の真っ向からの否定である。