子供の頃に見た世界と今見ている世界:迷想

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 幼児の頃の知覚世界を再度見たい、体験したいと思うのは私だけではないだろう。老いた今の知覚世界、若い頃の知覚世界、思春期の知覚世界、そして幼児の頃の知覚世界を私が追体験することは果たして可能なのだろうか。知覚像が感覚質を核にしてでき上っているため、その感覚質を追体験できるかどうかが鍵となるのだが、それができるかどうかよくわからない。そのためか、尚更幼児期の知覚世界を体験したくてたまらなくなる。機械式のカメラには知能も年齢も考える必要がないから、そのカメラの画像はどの年齢の人にも無関係に同じだと考えたくなる。だが、それが正しいかどうかさえうまく答えることができない。何とももどかしい限りである。私の直感は私の今の知覚世界と幼児期のそれはまるで違うと声高に叫んでいる。知覚されるものの色も形も大きさも相当に違っている筈なのだが、私の記憶はそれとは違った、連続した同一像を強要してくる。直線と曲線の違いを知っていない幼児に本当に直線が見えるのだろうか。自らの大きさを基準に見ている幼児に比べれば、客観的な身長、体重という概念を知悉する大人はより正確な大きさや長さを知っているのではないか。こんな問いの集まりに私はうまく答えられないのだ。
 幼児にははっきり見えていると思われていても、幼児は実のところぼんやりとしか見ていないのではないか。そのぼんやりとした世界をはっきり知覚できるようにするのが知識や言語である。知識や言語は知覚像を明晰判明にするものであり、それらを使った結果が成人の知覚像なのではないのか。そんな予想を裏付けるような話を扱ってみよう。
 変化はその表現の仕方に応じて分類されているようにみえる。感覚できる変化は言葉に頼らない仕方で理解ができると思われているが、多くの(感覚できない)変化は言葉の力に依存している。例えば、「離散的」な変化、「連続的」な変化はまるで異なる変化のように見える。だが、それらは違うとも、同じとも言えるほどに実は曖昧なのである。例えば、「離散」と「連続」の二つの概念の間の関係は離散的な関係なのか、連続的な関係なのか、と問うてみるなら、「離散」と「連続」を概念的に結びつけることができるか否かという問題と同じであることがわかる。そして、この問題はうまく解けない。だから、その意味で曖昧なのである。
 三角形や四角錐といった幾何学的な対象は、物理的な対象と同じように存在し、その在り様を変える訳ではなく、むしろ物理学的な対象に形や意味を与える知識として存在しているのである。それは言葉が概念や対象を指示することによって、それらについて私たちが考え、語ることができるようになるのによく似ている。対象や世界は感覚されることによって掴まれるだけでは十分ではなく、さらに幾何学的図形や数を含む言葉によって表現されることによって明瞭に掴まれることになる。感覚的に知るだけでなく、より明晰判明に知ろうとすれば、感覚する対象を的確に捉え、表現する数学や言語を使わなければならなくなるのである。
 数学概念や言語の表現能力はとても強力で、それゆえに無害なまま使うことは難しい。あまりに強力な性能ゆえに使うことによって対象が歪んで理解されることになるのは避けられない。特に、言語の力は絶大で、そのためか私たちは言語こそが世界をつくると思ってしまう程で、それをロマン主義などと呼んで称える輩が絶えないのである。無害な言語はなく、言語はそもそも有害なのである。ほぼ無害に近いのが数であり、図形よりは公平な表示が可能である。だから、デカルトの解析幾何学はほぼ無害に近い方法として使われてきた。数はものと相性がいい。かつて数は量の表現にもっぱら使われていて、量の表示が数だと考えられていた。量と数は互いに相手を変化させることがない。量と対になってきたのが形。形の表現は数ではなく図形だった。その量と形、あるいは数と図形をつなげたのがデカルトで、座標系の導入はそれ以来量と形のモデルとなってきた。
 瞬間は数学では点や実数の一つとして解釈できるし、そのため数学モデルにはしっかり存在できるのだが、世界に実在するかと問われると途端に怪しくなってしまう。実際、瞬間はどこにもない。それでも、「ほぼ瞬間」を私たちは十分に感じることができている。これは瞬間だけでなく、境界についても同じである。それを動画と静止画で考えてみよう。

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 絵画は静止画であり、ある瞬間の人物や風景であるというのが普通の理解なのだが、画家たちの巧みな企みがあちこちに施されていて、決してある時点、瞬間の静止画ではない。では、写真はどうか。編集前の写真は静止画と言ってもいいだろうが、瞬間の幅は相当にある。動画を止めても静止画が得られるが、静止画を通じて私たちはほぼ瞬間を感じ、さらにその感じがどのようなものかを確かめることができる。
 印象派の絵画の多くは瞬間的な光の効果を表現したものが多いが、光を使って時間を表現している。描かれているのは構想され、合成された瞬間だが、印象派の絵からもほぼ瞬間の印象を追体験することはできる。浮世絵の雨や雪も似ていて、雨の見え方は線であり、かつ雨は雨粒として大きさのある点としても描かれる。画面の水は流れていると感じることができるのだが、瞬間には水は流れていない。
 こうして、どこにもない瞬間ゆえに、それは見えない筈であるにもかかわらず、その瞬間の光景を見えると見做す理由は何か。なぜ私たちは瞬間を考えるのか。始まり、終わり、区切り、面積や体積の大きさの正確さ、を正確に知ろうとすれば、幾何学的に世界を知る必要が出てくる。知覚はそれに引きつけられ、惹きつけられるが、それを知ることによって知覚する内容が決まっていく。つまり、知覚像は学ばれた知覚像ということになる。では、学ぶ前の知覚は?、そこでの瞬間は?、と言った問いが待ち受けている。
 残念ながら、私は自らの子供時代の知覚像を思い出せない。それは老人の後悔となり、どうして5,6歳の時にそれを確かめなかったのか悔やまれるのである。子供の知覚だけの像などは実はどこにもなく、知覚は言葉と共に形成されるのだと思うのだが…
 「網膜像とは、網膜に映る本当の景色。知覚像とは、脳によって補正された偽の景色。カメラで写した景色は網膜像。私たちが、見ていると思っている景色は知覚像。だから、二つは違って当たり前。セザンヌは、遠近法を無視して知覚像に忠実に描いた。遠くのものは大きく、近くのものは小さく。」と割り切って言い切ると、これまでの危惧はすべて隠れてしまう。
 「起こる、消える、始まる、終わる」の時刻は同定できない。すると、意識や記憶の中の瞬間はどうなるのか。現実の物理世界に瞬間があるようには意識や記憶の世界に瞬間があると言えるのだろうか。瞬間とは意識の世界にしかないのかも知れない。物理世界を測る側の空間や時間の中に瞬間があるのであって、世界にはない。その測る側とは意識をもつ私たちである。
 ほぼ瞬間から瞬間を感じるが、その瞬間を知るにはどうすればいいのか。分割の極限としての瞬間が数学的に解釈された場合の瞬間である。稠密性や完備性が考えられ、点と線、あるいは瞬間と区間の区別がなされてきた。すると、次のような問いが気になってくる。直線が,無限の部分から構成されているのではないとすれば,直線は一体何から構成されているのか。
 アリストテレスにとっては,連続とは無限分割可能なものである。無限分割可能性は数学的には、二つの異なる分割点をどのように取っても,その間に新たな分割点を取ることができるという性質で、現在は「稠密性 (density)」と呼ばれている。実数の稠密性とは次のような性質のことである。二つの異なる実数を考えたとき、いずれかが他より大きいとすれば、それら二つの数の間には別の実数がある。これは実数だけでなく、有理数無理数も稠密性が成り立つ。ちなみに、実数の稠密性と連続性は別物である。実数の「連続性」は「完備性(completeness)」によって特徴づけられている。
 現在、実数の連続性に関する定理は見事に整理されているが、それらの関係をまとめると、次のようになる。

(1)上限、下限が存在する。
(2)有界な単調数列は収束する。
(3)区間縮小法、あるいはアルキメデスの原理が成り立つ。
(4)Bolzano-Weierstrassの定理が成り立つ。
(5)アルキメデスの原理、コーシーの収束条件が成り立つ。
(6)上限、下限が存在する。

 上の6つの命題について、(n)が(n+1)を含意し、(1)と(6)が同じ命題であるので、各命題は互いに同値である。実数の連続性は、解析学の様々な場面で登場する。

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 地図や自然には様々な表現が付着するようである。環境を風景に変えるための地図、自然を表現する地図、言葉で表現する自然、数学的に表現される自然、描かれる自然、音楽的に表現される自然、感じる自然、語る自然、見える自然、見つける自然、探求される自然などが絡み合って、自然-知識-感覚が一体化した経験が個人の中につくられている。誰も見たことのない瞬間の風景、誰も聞いたことのない瞬間の音が単にレトリックではない仕方で体験できると私たちは信じている。
 私たちはそれぞれ異なる経験をもち、異なる知識を手に入れ、新しい事態に立ち向かっている。だから、異なる領域それぞれに素人や玄人が生まれ、知識や技術の濃淡が出てくる。さらに、同じ人の年齢によっても経験や知識の獲得の質も量も異なってくる。そのような豊かとも言える個々人の違いを生み出すのが言語や知識なのだが、その違いを打つ消すのもまた言語や知識である。言語や知識は一般的であり、基本的に公共的であり、私的なものではない。
 私たちは知識や言語を習得し、それらを使って感覚知覚経験を一般的に表現するようになる。それは実に神秘的なことで、感覚質をそれとはまるで異質の言語を使って表現するのである。ある感覚を別の感覚で表現する以上にまるで感覚的でない言語や知識によって表現するのはとんでもないことなのである。鳶が鷹を生む以上に奇妙なことなのだが、私たちにはそれしかできないのもまた事実である。
 感覚は本来私的な感覚だと見做されているが、私的な言語はないというのがウィトゲンシュタイン以来の常識である。言語は本来公共的なものであるが、感覚質は私的だというのが通り相場。その感覚と言語の共同作業が大人の感覚的内容を形作り、かつ表現しているのである。私の迷想は終わりそうにない。