閑話:瞬間や境界はあるのか、あるなら、どこにあるのか

 私たちは言葉や数学を生み出し、瞬間や境界をつくり、環境とその中の事物を感じ、考え、描いてきた。点や線の幾何学を知れば、世界には瞬間も境界もない、いずれも非在だということにすぐに気づいてしまう。すると、走り出す瞬間や隣家との境界線がないことになるから、私たちの常識と数学的結果はまるで違うことになってしまう。瞬間、境界、始まりと終わり、長さと広さといった時間や空間に関わる概念は日常生活でも普通に使われる概念で、一見はっきりした意味をもって使われている。だが、暇つぶしに考えてみれば、それらは何とも曖昧模糊としており、厳格に捉えれば、瞬間や境界が指示する対象は物理世界にはなく、非在の概念であることがわかる。だからといって、瞬間や境界は私たちが勝手に考案、あるいは捏造した概念ということにはならないだろう。
 考案、あるいは捏造された瞬間は当然ながら眼で見ることができない。瞬間は知覚世界にはなく、あると仮定しても何ら時間的な幅のない、実害のない非在、あるいは説明のための工夫として存在しているだけである。架空の瞬間であるにも関わらず、その瞬間にものが存在すると意図的に自らに言い聞かせてきたのが私たちなのである。「必要悪」は言い過ぎだとしても、言葉や論理にとっては必要な仮定であり、それがないと文法に合った言語表現と、推論に使う古典論理がうまく機能しなくなってしまうのである。そのような意味で必要な事柄なのである。
 「瞬間や境界はあるのか」という問いには幾何学を使ったモデルの中にあるというのが常套の答え。「あるなら、どこにあるのか」には、モデルの中にしかなく、物理世界にはないことになる。私たちの生活世界には瞬間や境界は当然あるのだが、それが何を指示するかは曖昧なままで、私たちの頭の中にしかないとも言える。これがタイトルへの無難な解答か。