好きなのは性質、それとも物自体

 「誰が好きですか」という問いについて、それはどんな問いかなどと誰も改めて問いません。疑問の余地のない問いとして通用しています。「Aさんが好き」と答え、「Aさんの何が、どこが好き」と問い返されても淀むことなく答えることができます。「Aさんの律義さが好き」と答えるだけでなく、「Aさん自身が好き」だと白状しても誰も不思議に思わない筈です。
 「Aさんを知る」と「Aさんの律義さを知る」ことの間にある違いは普通は意識されません。でも、「原子を知る」ことと「原子の性質を知る」こととは違うというのが、これまた普通の科学的な常識です。これらの例から滲み出る「知る」ことの違い、あるいは「知り方」の違いは意外に厄介な問題なのです。
 個人を知ることは漸次的で、試行錯誤的だというのが私たちの日常生活での知恵のようなものです。人を知るには、何度も会って、色んなことを知り、その人を少しづつ知っていくしかないと思われています。そこで、改めて「ある人を知る」と「その人の性質を知る」との違いを問われるとまごつくだけなのです。

 「対象が在る」から「対象を知る」へと私たちの哲学的な関心をシフトしたのはデカルトでした。それがカントによって正面から取り扱われ、認知科学へと繋がることになりました。経験的、実証的に対象を知るためには実験や観察が不可欠で、信頼できる情報に基づいて対象が何かが知られることになっています。つまり、対象を知るために対象の性質を実証的、経験的に知ることが求められてきたのです。そして、あらゆる情報を経験的に入手し、それを使って対象を知るに至るというのが科学的な探求の目標になってきました。私たちが直観的に知るのは知覚経験であり、それらは簡単に消えたり、忘れたりするものです。そのために、得られたデータを確認し、保存する方法が考えられ、対象の性質の特定から対象自体の特定への過程が次第に洗練されてきたのです。
 こうして、知ることには対象の性質の認識と対象自体の認識の二つが見え隠れしていることがはっきりしてきます。知ること=認識する、そして、その結果が知識、つまり、知ったもの=知識ということなのですが、そこでは対象の性質を知ることと対象自体を知ることが厳然と違っていることがわかります。
 物自体を知ることが目標でないなら、その情報は何のための情報なのでしょうか。そこには仮説としての物自体が考えられているように思われます。データを説明するための物自体、データを担う対象としての物自体、データが指示する物自体が仮定されているのではないでしょうか。それは仮説演繹法の仮説に対応するもので、物自体が仮定されての話になっています。でも、演繹のための仮説ではなく、つまり、言明ではなく、対象の存在の仮定です。存在の仮定のもとに、その対象のもつ性質を知覚し、その結果が言明として表現されるのです。

 対象から人に話を移してみましょう。人は誰かを好きになることが本当にできるのでしょうか。普通は誰もそんな疑問はもちません。人を好きになったり、嫌いになったりするのは私たちの本能のようなものですから、誰も疑わないのは当然のことです。でも、そんな疑問にしっかり答えてみようと思い、それを語るような話をつくろうとすれば、どんな内容が必要なのでしょうか。
A 
 私の前には彼女の美しい姿があり、しなやかな肢体が眼前で躍動しています。健康そうな笑い顔が溢れ、周りは新鮮な雰囲気に満ちています。私はそんな彼女を好きでたまらないのですが、私が彼女自身を好きであることを直接に表現しようとすればどのように言えばいいのか、気になって仕方ないのです。彼女が好きな私の気持ちは本当に表現し尽すことができるのでしょうか。
B
 物自体を「物自体」としてしか表現できず、無限小も「無限小」としか呼ぶしかありません。それは、「1より大きい実数の中で最小のもの」という表現と同じように、直接にその対象を指示できないものです。これに対して、「私の隣の人」や「1より大きい自然数の中で最小のもの」は一つの対象をきちんと指示でき、それゆえ、固有名詞を使って呼ぶこともできます。このようなことと同じように、あなたが自分の好きな彼女自身を直接に呼ぶことができるためには言葉の表現レベルだけでは無理で、好きな彼女が表現される前に存在しなければなりません。直接に表現しようと考え出すと、そのような文をつくることができず、眼前の彼女を直示するしかないのです。彼女の何かが好きであることはいくらでも言葉を駆使して叙述できるのですが、彼女自身を直接に表現することが厄介なのと同じように、彼女を好きだということも実はユニークな仕方で表現できないのです。でも、そんなことは大したことではなく、兎に角彼女が好きだと直観し、そう思い込むことが心底できて、それが若さの特権なのでしょう。

A
 「誰が好きか」、「何が好きか」、「誰の何が好きか」という問いを見比べたとき、同じような問いに見え、どれにも同じように即答できると思っているのではないでしょうか。後の二つの問いが容易に解答できないように見える場合があるのに対して、最初の問いは簡単そのもので、いつでも問題なく答えられるように見えます。ても、後の二つは容易に解答できるのですが、最初の問いが実は何を意味しているのかはとても分かりにくいのです。そのように考えるのが哲学なのですが、人の何が好きかを特定できなくてもその人が好きだという方が単純明快でわかりやすいというのが常識なのです。この大きな違い、この哲学と常識の対立は一体何なのでしょうか。
 私たちが暮らす生活世界は個人を基本の単位の一つとして成り立っていて、その個人が好きだ、嫌いだというのが生活の基本になっています。そして、ある個人が好きだという理由としてその個人の何が好きなのかが求められる場合が多いのです。でも、上でみたようにそれらは異なっています。日常の世界では「誰が好き」と「誰の何が好き」はほぼ同じ程度に自明の事柄として考えられ、使われています。それらを話したり、考えたりすることが同じように捉えられているのが私たちの生活世界のもつ大きな特徴なのです。私たちの世界は個人を単位として成立していて、その個人が好きか嫌いかは基本的な事柄なのです。

 若い時、経験のない時に人が好きになるものは特定の個人や物事である場合が多いようです。恋愛で好きになるのは「誰かの何か」ではなく、「誰か」そのもの。その人全体を好きになるのであり、それが感情的に好きになるということ。何とも大雑把で、大胆なのです。それが歳をとり、経験が豊富になると、人は分別盛りをむかえます。分析的な見方、分別による判断が主となって、全体よりは部分や細部に目がいくことになります。分別が働くと、嫌いになるのはその人のある性質であり、分別ある嫌悪は性質や特徴が主となります。分別は好きになるより、嫌いになることに敏感なのです。
 こうして、ある性質が好き、嫌いということと、個人が好き、嫌いの違いがもっともらしく説明できるようなカラクリが見えてきます。個人に対する好き嫌いは大雑把で大胆な感情から生まれ、個人の性質に対する好き嫌いは分別が働いた判断から生み出されるというのがその説明となります。
 人のもつ性質だけでなく、どんなものの性質も誰かの性質、何かの性質です。それぞれの性質は個体によって、その個体の性質として実現されています。性質は個体の性質であり、性質をいくら集めても個体にはなりません。これは集団や組織の性質も個体の場合と同じです。
 現象や事態を眺める場合、個体を重視するのが実在主義の基本的立場、性質を重視するのが経験主義の基本的立場です。個体や対象をまず措定し、次にその性質を考えるのが古典的な仕方であるのに対して、近世以降の思考は唯名論的、経験論的に、経験できる性質の検証や測定に重点を置きます。
「誰かを失う」と「誰かの性質が失われる」には大きな違いがあると思うのが普通です。ですから、「誰かを手に入れる」、「誰かの性質が増える」の間にも大きな違いがあります。それだけですと、牧歌的な感があるのですが、「君はその人が好き」なのか、「その人のある性質が好き」なのか、いずれかと問い詰められると、二つの違いが表面に現れてきます。特に、あの人が嫌いなのはあの人の何かが嫌いなのではないかと思う人が多い筈です。そうなると、「あの人が好き、嫌いとはそもそもどのような意味なのか」といった基本的な問いに立ち戻ることになるのです。