実在と感覚質の表現:中途報告

 これまで何回か、実在、感覚質、そして、それらの言語表現について考えてきました。ジャングルに踏み入ったままという印象が強いので、ちょっと立ち止まり、主なものをまとめておきましょう。

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(順不同)
(1)かつてアリストテレスやその哲学を引き継いだトマス・アキナスは「存在」を中心に世界を実在論的に考えました。その際に使った言葉は自然言語であり、その言語は中立的なものでした。実在するもの、それについての知識、知識を表現する言葉が互いに他を侵さない仕方で調和的に捉えられていました。でも、ルネッサンス、科学革命を通じて私たちの経験、知識、そして言語の相互の関わりはより実証的に扱われるように変貌していったのです。
(2)「知識論証」におけるメアリーの色体験でメアリー自身に色の体験、色の感覚質について語らせたいのですが、残念ながら感覚質は語れません。語り出すと、それは色ではなく色についての言明になってしまいます。これは実在についても同じで、物自体について語り出すと、それは認識の対象として直観の形式を通じてしか語ることができなくなります。何とあのカントの『純粋理性批判』の主張と同じことが感覚質でも起きているのです。感覚質と実在は大変異なるものと理解されていますが、物自体も色体験も同じように言葉を使っては語れないものとして扱われていたのです。
(3)感覚質や感情体験自体が言葉によって語ることができ、私的言語は存在せず、言葉が常に公共的なものであるなら、チューリング・テストに合格できるAIをつくり、そのAIに色を感覚し、感情を表現できるように仕向けることは原理的に可能ということになります。機能主義的に感覚質や感情体験を表現できることは、つまりそれらを表現できるAIの実現ということになります。
(4)言語万能主義とは、今の場合、実在も感覚質も言語的に表現できるという信念が正しいを意味しています。言語的でない存在や現象はどこにもなく、森羅万象は言語的に表現可能だということを意味しています。言葉で語れないものがあるならば、言語は万能ではないことになり、その代表が物自体、実在、感覚質、感覚経験等だったのです。
(5)かつてガリレオが自然の数学化を夢想し、それが科学革命を通じて実現したのですが、それに対してフッサールは強く批判しました。彼は数学化によって自然の多くが隠蔽されると考えたからです。数学化とは言語化の一つであり、世界の言語化フッサールが考えた以上に大規模な隠蔽をもたらすことが容易に想像できます。そして、隠蔽される一つが感覚質ということになります。
(6)ポパーは世界を1,2,3に分け、1(物理)、2(意識)、3(知識)の世界が三権分立のように相互作用しながら支え合っていると考えました。三つの世界のどれも言語によって表現されるのですが、では、その言語はどの世界に属するのでしょうか。どの世界にも分散するかのように存在しているのですが、まとまった言語システムはどの世界にも属しておらず、はみ出してしまいます。
(7)チューリング・テストの実行には言葉が前提されています。つまり、このテストは言葉を通じた、言葉のレベルでのテストです。言葉なしにチューリング・テストをしようとするとお手上げなのです。実在や感覚質経験が言葉で表現できないなら、それらを扱うテスト項目はつくれないことになります。
(8)美術作品、音楽作品は言葉によって説明、解釈がなされますが、絵画や楽曲が言葉に還元されるなどとは誰も思いません。それは個人についての説明とその個人自身とがまるで別物だということと同じことです。語り得ぬものを必ずもつのが美術作品、音楽作品だというのが、私たちの常識です。
(9)経験や実在は言葉によって表現され、説明されても、経験や実在は言葉に還元されることはありません。語り尽せぬものをもっているのが経験や実在であり、それゆえ、語り尽そうと躍起になるのが言葉をもった人間なのです。

 最後に問題。死後の世界を体験できず、それゆえ言葉で表現できないことと、実在や感覚質を言葉で表現できないこととは何が違うのでしょうか。