微積分の背後へ(4)
<流率法を巡って>
 ニュートン以後の微分積分学の基礎にある「無限小」に関する論争と言えば、バークリが英国の数学界に与えた批判が有名である。バークリは18世紀スコットランド哲学に大きな影響を与えた。実際、ヒュームの 『人生論』とこれに対抗した常識哲学という二つのスコットランド啓蒙を代表する哲学は、バークリの存在に大きく依存していた。だが、微積分学批判者としてのバークリの実像に迫る研究はまだ十分ではない。例えば、バークリの著作『解析家-不誠実な数学者へ向けての論説』(The Analyst: or a Discourse Addressed to an Infidel Mathematician, 1734、不誠実な数学者と名指されているのはニュートンその人)がスコットランドニュートン派数学者マクローリンの主著『流率論』(A Treatise of Fluxions, 1742)を生みだす動機と状況をつくりだしたのだが、それすらまだしっかり吟味されていない。マクローリンは数学者であったばかりでなく、初期ニュートン主義を代表する自然哲学者でもあり、スコットランドにおける実験哲学の中心人物だった。
 ニュートン学派の微分積分学研究へのアプローチは、ニュートンの『光学』(Opticks)の付録として公表された「求積について」(De quadratura)がその出発点だった。マクローリン、ロビンズ、そしてダランベールなどの18世紀の数学者たちは、有限量とそれらの変化率を扱う微分積分学をそのまま継承し、維持していた。さらに、証明の方法は比と和の極限を計算することにあった。無限小解析派の技法は、ニュートンの初期の著作で使用されてはいたが、それは根拠のないものとみなされていた。流率論者のアプローチは、主に英国ではテイラー、スターリング、マクローリン、ドゥ・モアブルのようなニュートン説信奉者に継承されていた。だが、英国においてさえ極限比は一般に数学的著作の序論や序文で言及されるだけであり、応用と実際の計算の場合には無視されていたのである。ライプニッツ学派の微分積分学研究へのアプローチは、18世紀数学に莫大な影響力を持っていた。実際、18世紀の数学者の大多数はライプニッツ学派のアプローチを採用していた。一方、ニュートン学派のアプローチは、ライプニッツ学派に比べて古代ギリシャ以降の厳密性の基準にかなっていたが、それより使いにくい、厄介な表現だとみなされていた。ライプニッツ学派(主に大陸の学者たち)とニュー トン学派(主に英国の学者たち)は、計算の結果では一致していたものの、方法論上の問題に関しては意見を異にしていた。これにニュートンライプニッツとの微分積分学発見の先取権をめぐる論争が加わり、二つの学派を大きく引き裂いていたのである。
 アメリカから帰国したバークリが1734年に出版した『解析家-不誠実な数学者へ向けての論説』と題された短編のパンフレットは、数学者たちとの間に激しい論争を引き起こし、やがて英国数学界全体に大きな影響を残すことになった。バークリは『解析家』の中で、ニュートン学派とライプニッツ学派の数学者たちは存在論的な誤解と論理的な誤謬に関して有罪であると主張した。
 主教バークリは初期の未完論考「無限小」で、形而上学が数学の限界を定め、それが内包する哲学的問題を明らかにする唯一の学問であるという見解を表明し、無限小を回避する議論を展開していた。だが、バークリは微分積分学が複雑な幾何学的問題や力学的問題を十分に解くことができるという点を否定していたわけではなかった。彼の目的は、ニュートンライプニッツがつくり出した「新しい解析」(微分積分学)の基礎に関する厳密性の欠如を非難することにあった。彼の批判は、「合理主義の哲学を標榜する人々が、その成功に夢中になっている解析法の中にさえ、論理的には重大な難点がある。それを放置しておいて、教会の教えの非合理性ばかりを批判することができるか」という、合理主義的な啓蒙主義精神に指導された近代知識人に対する神学的立場からの反論という形で提出されていた。バークリの批判は、存在論的なものと論理的なものとの二つに分けることができる。バークリによれば、存在を極限あるいは無限小に帰することはどんな存在論的な正当化もできない。比の極限は、二つの有限量の極限であるか(それゆえ「最後の」比ではないか)、あるいはそれは比0/0であるかのいずれかである。ゼロでも有限でもない無限小量は、相容れない定義を持っている。したがって、それに相当するものは何もないというわけである。さらにバークリは、論理的な観点から「解析家たち」 は仮定の虚偽(fallacia suppositionis)に関して誤っていると非難する。つまり、仮定A(「変量の増分は有限である」)から彼らはいくつかの命題を引き出し、それから証明の途中で結論に達するために「Aでない」 を使ったというのである。バークリは、これにも無限小算法における微分の不明瞭な性質が関係していると考えた。例えば、dx ≠0という仮定から出発して、最後に高次の微分の消約原理を適用するときになると、 dx=0として扱い、それらが掛けられている量は計算から削除されるということを指している。バークリが強調した批判は、無限小や無限大に関して、いわゆる「無限」の比較が行われていることだった。バークリが依拠するのは日常的な理性であり、日常の言葉で議論する限り、無限という概念の定義からして彼にとって無限の比較はありえないことだった。
 バークリは自然観においてもニュートン学派と違った考え方をもっていた。彼は運動が物体の外から与えられるだけでなく、運動そのものが「精神」の領域に属していると考えていた。彼は「精神を運動の原理とした」として、アナクサゴラス、アリストテレスデカルトを賞賛した。また、バークリは物体の存在なしに空間を考えることはできないとして、ニュートンの絶対空間の存在を否定した。こうしたニュートンに対する自然学批判は、数学上の「無限小」についてと同様に、哲学が自然科学の最終的な論拠を与えるのだという考え方に結びついている。つまり、物理学は物体の運動の原因を明らかにする能力を持たず、法則を記述するだけにとどまるべきであり、原因そのものを解明するのは「より優れた科学」である形而上学の手に委ねるべきなのである。バークリにとって数学も例外ではなかった。バークリの数学批判は反ニュートン的な議論の典型であり、彼の議論の結論は、確実性を達成する唯一の科学と考えられてきた数学自体の価値をまさに貶めることにもなった。バークリにとって、解析は不信仰と哲学的誤謬への道でしかなかったのである。
 バークリに対する権威のある返答は、ニュートンの最も有能な弟子の一人マクローリンによって与えられた。マクローリンの才能は周囲の注目を集め、19歳でウォルター・ボーマンとアバディーン大学の教授職を争い、ボーマンの方が『原論』により精通していたが、「マクローリンは数学のより理論的で高度な部分において優れている」という理由からマクローリンの方が任命された。その後、マクローリンは王立協会の会員となり、これを機会にニュートンの面識を得ることになった。ニュートンとの出会いは、彼の後の人生を左右することになる。やがて、彼はニュートン学派の最も有能な数学者となっていく。
 18世紀スコットランドは自然科学の黄金時代だった。1717年エディンバラ大学の卒業生たちによって伝説的なランケニアン・クラブが結成される(クラブ名は、会合が行われた居酒屋の主人の名前からきていて、もっぱら哲学的、宗教的問題が議論された)。その後、ここでの人々や医学者たちは正式に哲学協会を発足させる。マクローリンはその中心人物であった。ランケニアン・クラブにはじまるスコットランド哲学の形成は、クラークの自然神学や、これに対するバークリの批判を検討することから始まった。マクローリンは『流率論』(1742)において、無限小はニュートンによって証明を簡略化するためにだけ使用されたということを示そうとした。彼はこれらの証明を、再びニュートンの論考「求積について」(1704)のスタイルに従って、極限の用語を使って拡張した。さらに、マクローリンは極限によるニュートンの証明が、畏敬する古代ギリシャの数学者の「取り尽くし法」と同じだったという考えを練り上げた。実際、「新しい解析」はまさに「アルキメデスの方法」の一般化だったことが何度も示されている。マクローリンによれば、ニュートンの「最初の比と最後の比の方法」は、アルキメデスの間接的方法(帰謬法)の直接的な表現だったのである。
 マクローリンは『流率論』第1章で、流率に関する運動学的モデルを示した。運動、空間、速さは、根源的な概念として前提される。このような彼の流率算の基礎は、英国の数学者たちの間で非常に好意的に受容された。だが、マクローリンのスタイルの冗長なこともあって、誰も『流率論』の長々しい証明を再び取り上げようとはしなかった。それでも、1742 年以来、ほとんどすべての流率論者が、マクローリンの無限小に対する拒否の姿勢に賛同した。マクローリンの流率に関する論文は英国科学界に深くわだかまっていた様々な観念を明らかにした。
 微分積分学の基礎づけの問題が、いわゆる一 流の数学者によって本格的に取り上げられるのは19 世紀に入ってからである。しかし、これに少し先立つ 18世紀末、ラグランジュによってこの問題が提起されることになった。

補足(1):微分の歴史
 ニュートンライプニッツは同時期にそれぞれ別のアプローチで接線問題や求積問題に取り組み、微積分学の基本定理(微分積分は逆の関係にある)を発見した。ニュートンは基本定理を1666年に発見、1704年に発表し、ライプニッツは1684年に発表した。
 微分の概念は「接線」の概念から生まれた。古代ギリシャの時代に既に接線の概念が存在していた。ユークリッド幾何学で接線は、「円と1点のみを共有する直線」と定義された。だが、接線についての本格的な議論はなされないまま、時代は中世に。
 その後の数学の最大の出来事と言えば、デカルトによる座標の発明。座標によって幾何学代数学が結びつき、定規やコンパスで描かれていた直線や曲線は、座標や代数の概念を使ってより厳密かつ正確に表現できるようになった。そして、接線が注目を集めることになる。
 デカルトフェルマーは、曲線に接線を引く方法(「接線問題」)の解決を目指した。接線問題を解決に導いたのはニュートンニュートンは、曲線や直線は小さな点が時間の経過とともに動いた軌跡である、という考えのもと、動点の進行方向である接線の傾きを計算する方法を考案した。無限小の時間を表すο(オミクロン)という記を取り入れ、動点がx軸方向に進む距離をxο、y軸方向に進む距離をyοとし、これらの値を曲線の式に代入して、最後にοを含む項を捨てる。この方法が「流率法」である。一方、ライプニッツは今の微分で使用されているdxやdyなどの記号をつくり、曲線や直線の傾きを求めた。
 ニュートンライプニッツ微分は、「無限小」の概念が十分に形式化されていなかったため、今日のような厳密さが欠けていた。だが、微分は、力学や天文学などに応用でき、実用的であったため、ベルヌーイやロピタル、オイラーラグランジュラプラスなどの研究によって普及していった。微分学が厳密性を伴うようになったのは、19世紀に入ってからである。仏の数学者コーシーは、1821年に発表した「解析教程」で「極限」や「無限小」、「連続関数」の概念を定義し、解析学の基礎を刷新し、その後デデキントカントールによる実数論などを経て、今日の微分の基礎が完成した。
補足(2):Maclaurin, Colin.
A Treatise of Fluxions. In Two Books, Edinburgh: Printed by T.W. and T. Ruddimans, 1742.
MacLaurin provided a rigorous foundation for the method of fluxions based on a limit concept drawn from Archimedian classical geometry. He went on to demonstrate that the method so founded would support the entire received structure of fluxions and the calculus, and to make advances that were taken up by continental analysts. In 1734 George Berkeley had published The Analyst. Besides objecting to particular demonstrations and procedures, Berkeley's criticism of the method of fluxions amounted to the well substantiated assertion that it was founded inescapably either on infinitesimals or on a shifting of hypotheses, both of which were logically indefensible. The Treatise was generally cited by British fluxionists as the definitive answer to Berkeley's criticism, but MacLaurin had accomplished much more than this. MacLaurin's work was cited with admiration by Lagrange,, Clairaut, d’Alembert, Laplace, Legendre, Lacroix, and Gauss. The influence of MacLaurin's use of the algebra of inequalities as a basis for his limit arguments can be seen in d’Alembert, L’Huilier, Lacroix and Cauchy.
(Erik Sageng, Colin Maclaurin, A treatise of fluxions(1742), Landmark Writings in Western Mathematics 1640-1940, Ch. 10, 143-158, Elsevier, 2005)