微積分の背後へ(1)

 原子論(atomism)は物質の理論というのが今の私たちの常識なのだが、そんな常識がそのまま成り立たないのがギリシャの原子論で、ギリシャの原子論は自然哲学あるいは形而上学である。その原子論の「原子」とはまるで異なるのがユークリッド幾何学の最初の対象である「点」。「原子」は不可分でもサイズがあるが、「点」は不可分でサイズがない。アリストテレスは原子論が嫌いだったし、数学にもプラトンのような入れ込みをしていない。冷静なアリストテレスが惹かれたのは論理学と質料と形相からなる存在論、そして自然科学だった。
 ギリシャ時代から科学革命が起こる前までは、形而上学(=存在論)と数学の結びつきは現在よりずっと疎遠だった。数学はイデアの世界の理論であり、形而上学は物理世界についての理論だった。コペルニクスケプラーガリレオニュートンらによる科学の大変革は「17世紀科学革命」とも呼ばれるが、その科学革命を通じて、数学と物理学は密接に結びつき、それ以後数学は物理学の言語として固い絆で結ばれ続けてきた。世界の物理的変化を見るだけでなく、しっかり語るとなれば、言葉を使って物語らなければならない。これがガリレオ以来の伝統である。
 まず初めに、アリストテレスの連続性の概念を振り返ってみよう。アリストテレスの連続性の概念は、『自然学』、『形而上学』、偽書『不可分の線について』 等に登場する。彼は運動についての考察から連続性の概念を吟味するようになった。アリストテレスにとっては「連続性」は物理的な概念である。例えば、『自然学』(227L20)には連続性の概念が次のように述べられている。

・「接触的」とは、端と端とが一緒にあるところのものである。
・「継続的」とは、はじめのものの後にあつて、当のものと当のものによって継続されるものの中間には、同じ類のものは何も介在していないものである。
・「接続的」とは継続的であって、接触するものである。

これらの概念を使って「連続性」が定義される。

「連続的」とは、接続的なものの一種にほかならない。接続するものどもが互いに接触しあうところのおのおのの限界が、同じ一つのものとなるとき、連続的であるという。ものの端と端が一緒にあるのみならず、一つになっていなくてはならない。

 アリストテレスは、「継続的」>「接続的」>「連続的」といった包含関係を使って、「連続性」の概念を定義していく。これから、例えば、長さ10 cmのブロックを10個くっつけて並べて、lmの長さにしたものは接続的であり、lmの長いブロックは連続的ということになる。次に、アリストテレスは「連続的」なものの構成要素を吟味することにより、その属性をより的確に把握しようとし、「連続的なものが不可分割なものどもからなるということは不可能」(『自然学』231a21)との結論に達する。例えば、線は連続的、点は不可分割的だから、線が点からなることは不可能であるというのである。なぜなら、(連続体の要素は相互に接触していなければならないが、)不可分割的な対象が相互に接触する場合は、全体が全体と接触するのでなければならない。しかし、全体が全体と接触するならば、不可分割な対象は連続的なものとならないだろう。なぜなら、連続的なものは、別々の諸部分をもち、このような仕方で異なる対象、つまり、場所的に離れている対象へと分割されるからである。アリストテレスはこのように論証している。すなわち、不可分割なものは、部分を持たないから接触するとしても全体と全体が接触するしかない。だが、それでは、大きさを持つ連続的なものは構成できないというのがアリストテレスの理由だった。ここでは、「接触的」という「連続的」であるための必要条件を否定することにより、議論がなされている。アリストテレスはさらに別の論拠を挙げる。線も面も一般にどんな連続的なものも不可分なものではない、ということは明らかである。このことは今述べた理由で明らかであるばかりでなく、もし不可分とすれば、不可分なものが分割されることになる、ということからも明らかである(『自然学』233bb20)、というものである。つまり、不可分なものを奇数個集めて連続的なものを作り、それを真ん中で二つに切ったとすると、真ん中にある要素は二つに分けられてしまう。これは不可分なものの定義に反するというのである。
 アリストテレスの論証は、部分を持たない、それ以上分けられないことといった不可分なものの定義と、連続性の定義に基づくものである。今日私たちが見てもある程度の説得力を感じる。さらに、カトリック教会がアリストテレス哲学を神学の基礎に置いたため、アリストテレスの連続性についての見解は、中世に至るまで広く受け入れられていた。
 だが、それと同時に多くの人はユークリッド幾何学の点や線の定義を思い出すのではないか。ユークリッド幾何学は点の定義から始まる数学のシステムであるが、物理世界の連続性や不可分割的なもの(=不可分者)がユークリッド的な点、線、面、図形とは別のものとして扱われていることに違和感をもつのではないか。この違和感がきっかけの一つになって、連続性の再考へと繋がっていくのである。
 それを辿る前にユークリッドの『原論』の定義の最初の幾つかを挙げておこう。アリストテレスの点と線の関係と如何に違うか確認してほしい。

定義
1 点とは、部分をもたないものである。
2 線とは、幅のない長さである。
3 線の端は点である。
4 直線とは、その上にある点について、一様に横たわる線である。
5 面とは、長さと幅のみをもつものである。
6 面の端は線である。

*「線は点からできている」という言明の真偽について、アリストテレスユークリッドは、それぞれどのように判定するだろうか。