神話、物語から哲学、科学へのパラダイムシフト(4)

<プロットと因果過程(物語と現象)>
 プロット(plot)は物語の設計図。物語の基本はプロットの存在にある。どんな現象、出来事も原因と結果をもっていて、複数の因果過程がしばしば重なり、また離反するように変化する魅力的なプロットが私たちを惹きつける。プロットは物語の要約。物語の重要な出来事をまとめた粗筋がプロットで、重要な出来事とは後の展開に大きな影響を与える出来事である。プロットが出来事の原因と結果を抜き出したものであるのに対し、物語は出来事を起こる時間の順序に従って叙述した文章からなる。物語とプロットとは一応別物であるが、ここでは区別せずに使う場合もある。
 「自由と決定」と呼ばれる哲学では有名な問題がある。それは「決定論が成り立つ世界で私たちが自由に考え、振舞うことができるのか」という問題である。この難問を考える上で大切なのは、プロット、つまり、話の筋と、実際の因果的な変化、出来事の関係とをはっきりさせることである。どのような経緯で物事が起こるかをプロットとして理解するのが私たち人間である。物語と物理的な因果過程は別のものという印象があるが、少し冷静に考えれば、因果的な展開こそが物語の命である。だが、ブロック宇宙モデル(Block Universe Model)に見られる構造的な理解と物語のプロットの因果的な理解は違っている。構造をわかることと因果過程を追うことの間には大きな違いがありそうである。
 因果的な系列の代表例が原因と結果の鎖だろう。一本の鎖のように因果的な現象を捉える典型例が力学モデルで、コイン投げの力学モデルではコインが手を離れ地面に到達するまでの軌跡が一本の線のように描かれることになっている。これは大変単純な因果過程の例で、コインが時間の経過に従って、分割されることなくその状態を連続的に変えていく。力学モデルの始まりや終わりは物理的に決まっているわけではない。始まりや終わりは恣意的で、系が孤立している限り、始まりも終わりもないというのが普通である。
 幾何学の証明に見られる論証では、因果系列に対応するのは命題の変形が証明図として書かれる姿であろう。変形の規則は論理規則で、時間のパラメータを含まないという意味で、変形は因果的ではない。いつも線形の系列ではなく、時には分岐が起こる。一つの証明に対して、一つの証明図が考えられるが、始まりは前提、終わりは結論である。二つ以上の定理がある順序に従って組み合され、証明の系列が考えられる場合、複数の証明をつなぎ合わせるのは私たちの巧みな論理規則の組み合わせであり、そこにはプロットの展開に似たものがある。
 普通の物語では複数の因果系列が進行しており、それらが時には衝突し、分離し、それによって新しい因果系列が生まれるといった、因果系列の繋がり合いが物語の面白さを決めている。単純な力学モデルの過程ではなく、力学モデルが複雑に幾つも絡み合うところに物語の真髄があり、それが人生の絡み合いに通じている。前に述べたように、因果的でないモデルにはコイン投げの力学モデルを複数考え、表と裏の結果だけを比べるモデル、つまり、コイン投げの確率モデルがあり、因果的でない頻度に関するモデルになっていて、コインの運動の軌跡は省かれている。
 あることが起こり、それが変化し、ついに決着がつく、といった言い回しに何の不思議も感じないのは、それが現象の起こり方だと信じられているからである。因果的なプロットにもいくつかの種類がある。だが、プロットとして現象や出来事、事態を理解するという点は共通している。では、論証や証明はプロットをもつだろうか。証明すべき命題をどのような順番で証明していくか、ある定理の証明のためにどのように個々の命題の証明を組み立てていくか、といった事柄にはプロットが必要と思われるが、個々の証明の中にはプロットはない(帰謬法はどうか)。先にプロットがあり、それに合致するような命題が探され、その命題の証明は演繹的に行われるというのが普通である。
 私たちがどうしてプロットとして物事を理解するかという理由は、私たちの経験の仕方にあるようである。時間的な経過、流れの中での経験は、出来事を因果的な変化として捉える。因果的な変化とは、物事が並列して起こるのではなく、直列式の出来事の系列が図として浮かび上がるような仕方の経験である。この経験は物語のプロットの展開に似ており、私たちが自らの経験を理解する自然な仕方が物語としての経験なのである。日常の経験とは因果的な経緯の経験である。だが、因果的でない経験もある。純粋に色を見ている、一心にある音を聞いている、素晴らしい風景に見入っている、等々は因果的というより静的な情景の経験である。私たちが知覚する際、不変のものの知覚は変化するものを必要とするし、変化の知覚は不変のものの中でしかできない。静止したものと運動するものの知覚は互いに他を必要とする。
 因果過程の途中に分岐が起こり、樹状の構造となるにしても、ある出発点から枝を辿ってゴールに達することができる。分岐は因果的ではない、というより因果性とは異質の概念である。分岐は複数の因果過程の併存を前提している。枝分かれしないで時間発展する系は単純で、決まる過程だけを記述し、説明すれば理解できる系である。分岐し、それゆえ、分岐点で選択が必要な系には因果的でない要素が含まれている。選択は因果の鎖を切らなければならないが、その選択の存在が物語には不可欠で、複数の因果過程の絡み合いこそ物語を興味深いものに仕立て上げている。
 「自由と決定」問題の解決は分岐的過程の存在に結びついている。一つの過程を決定論的に説明する法則では分岐まで説明することができない。それを敢えてしようというのが非決定的な説明である。決定論的な理論は一つの過程を説明するためのものであり、分岐構造をもつ因果過程は「選択を含む因果過程」として説明されてきた。分岐について、次のような二種類の形態がある。

分岐が実在し、二つ以上の過程が共存する場合:遺伝法則に従う世代交代
分岐があっても、片方だけが実現する場合:自由意志による選択とその後の行為

これら二つの分岐過程は本質的に異なり、それが問題を厄介にしているようにみえるが、実はこれら二つの分岐過程は同じ一つのもので、見方の違いが二つに見せているに過ぎない。二つの選択肢の一つが自由意志で実現する場合、ある自由意志がAを、別の自由意志がBを選択するなら、AとBの過程が共に存在するが、自由意志は特定の機会に二つ同時には選択できなく、いずれか一つを選択しなければならないなら、片方の過程は見えないことになる。
 物語は、私たちの自由意志が働くことによるプロットの存在と、因果的な過程が上手く組み合されることによって、私たちを惹きつける力を獲得することができる。その力は、物語の世界がこの世界の出来事と同じようなことであり、いつどこで起こってもおかしくない、但し架空の出来事であることから来ている。一つの因果過程は物理レベルの出来事の古典的な特徴であり、時間的な出来事の系列である。そこには自由意志が働く余地はなく、したがって働いた痕跡はどこにもない。

 ここまではいわば能書きの部分でとても退屈な話と感じている読者が多いのではないか。ここまで我慢していただいた読者には以後の話が期待を裏切らないものであると確信している。因果過程の衝突によって誰かと知り合い、何かを忘れ、それが長々と続くのが人生である。それゆえ、以後の議論の展開も因果的な様々な衝突に依存し、そこに書き手の私の意志が反映していると考えてほしい。

ターレスの幾何学:論証による説明>
 現在はトルコのミレトスで生まれたターレス(624-546 BC)は、気候や天体の変化は神ではなく科学者が説明すべきだと考えた。ターレスは物質がすべて水からできていると誤解したが、どんなものも同じものからできているという考え自体は誤っていない。事実、すべては素粒子からできていると今の私たちは認めている。ターレスは地球が丸く、月は太陽の光を反射して輝くと説き、日蝕を最初に予言したとヘロドトスは伝えている。さらに、ターレスは数学、特に幾何学を生み出し、幾つもの定理を証明している。
 アリストテレスターレスの金儲けの話を伝えている。貧乏で、知識は役に立たないと批判されたターレスは、気象学を使って翌年の夏のオリーブの収穫は豊作だと予測し、オリーブの圧搾機を事前に借り上げ、大儲けできた。これはアリストテレス政治学』で言及されているが、デリバティブ取引、オプション取引の最初と言われている。知識を上手く利用して金儲けをするときの因果的な文脈と、ターレスが定理を証明するときの因果的でない文脈を見比べると、因果的な文脈では「利用される知識」が主人公になり、非因果的な文脈では主役が「探求される知識」であることが見事に浮かび上がってくる。
 ターレスの合理的精神は、エジプトから持ち帰った知識を鵜呑みにせず、論理的に徹底的に吟味して結論を導くものだった。これがギリシャ数学を生みだす源泉になった。エジプトでは「円の直径はその円を二等分する」、「二等辺三角形の底角は等しい」、「対頂角は互いに等しい」ことなどが経験的に知られていたが、それらを最初に証明したのがターレスだと言われている。既に知られている事実を単に受け入れるのではなく,より基本的な一般原理まで還元し,そこから証明するという態度は神話による説明と大違いで、この点において,ターレスはギリシャの論証数学の第一歩を踏み出したのである。

(問)物語のもつ因果的なプロットとその物語を読む読者が物語を理解し、味わうプロセスの因果過程との間にはどのような関係があるだろうか(実在とその認識の関係)。「嫉妬が動機になって人を殺す」という因果過程とその物語を読んで理解するという因果過程との間にどのような関係がなければならないのか(実際の物理的因果過程がどのような物理現象なのか、これはわかっているようで実はわかっていない。その理由は、どのようなレベルでの過程、現象を考えるかがうまく設定できないことにある。物理過程、情報処理過程、心脳の相互作用過程、情報内容のプロット、物語、等々が重複しながら階層的に並んでいる)。