神話、物語から哲学、科学へのパラダイムシフト(3)

<理論か物語か?>
 理論と物語のいずれがより信頼されているのか。古代人なら物語を、現代人なら理論を信頼するというのが誰もが出す答えである。世界の誕生から現在までを物語として受け入れ、盲目的に信じることと、世界の仕組みや構造に関して疑問をもち、それを考察し、基本的な原理や法則を探求することとの間には大きな違いがあり、ターレスは哲学的な疑問をエネルギーとして自ら世界を探求し始め、それが現在に至るまで私たちの習い性になったと言われてきた。このような一般的な見解は哲学史の研究から出てきたようである(例えば、John Burnet, Early Greek Philosophy, 3rd edition, 1920, London: A & C Black.)
 次の二つの表は月並みだが、私たちが常識として理解しているものを整理したもので、何ら問題なく納得してもらえるのではないか。


1. 理論:論証や証明の非因果的な表現様式
・普遍的な真理を無矛盾な仕方で探求する。
・真偽の判断は、論証や証明の論理的妥当性や正確さにある。
・正しい説明を探求する。
・仮説からの無矛盾な数学的推論によって結論が導かれる。
・経験的発見と推論を通じて、世界を描き、科学技術を生み出す。
2. 物語:行為や出来事の因果的な表現様式
・個別の事実、真実を、シナリオの巧みな展開によって伝える。
・シナリオの迫真性が求められる。
・迫真の叙述を探求する。
・みごとなシナリオで人の心を惹きつける物語がつくられる。
・シナリオは、人の行為と意識の様々な光景を描く。


 神話や物語として描かれた世界の姿を素直に受け入れること、理論をつくり、論証によって世界の姿を探り、説明すること、これら二つは大変に異なった態度であり、その態度の変化が哲学、そして科学を生み出した、という考えは本当に正しいのだろうか。これら二つは「相容れない二つの態度」だとするなら、それはどこか違うと感じるのは私だけだろうか。その理由は、つまるところ、理論と物語は両立可能なものであり、世界についての対立する見方、両立しない考え方ではないからである。互いに両立するゆえに、神話や物語から理論への移行と、理論からそれらへの移行も同じように行われてきたのである。二つが相容れないなら、朝に理論を学び、夜に物語を楽しむなどということは至難の業となるはずである。
 これを確かめるために、次のような対について順次考えてみよう。これら三つの対の間には共通の特徴がある。それぞれの対は根本的に相入れない、両立不可能なものと(それぞれ別の理由から)考えられがちなものである。
 
 神話と宇宙論  歴史と進化論  個体発生と系統発生

世界や民族の起源を語る創生の神話、物語は実に多い。世界中のどこにも存在し、それが宗教につながっている場合がほとんどである。神話や物語では特定の人物や事柄が主人公として描かれ、神や英雄が登場し、奇蹟が起こり、それらが人々を強く惹きつけてきた。神話や物語は人々を支配し、それを信じることが生きることにつながっていた。それらが描く特定の内容は大変命令的であり、それを遵守することが人生のゴールにつながるように仕組まれていた。自らの起源、歴史が民族の歴史として語られ、それが常識として生活に組み込まれている世界では、それに対して疑問をもったり、反抗したりということは自らを否定することと同じことだった。
 一方、宇宙論創世神話に比べれば、随分新しいもので、現在新しい知見が増大している物理学の分野である。ビッグバン以降の宇宙の歴史が物理学の最新理論によってモデルとして構成されている。科学的な事実として宇宙の歴史を確定するのが宇宙論の目的である。創世神話が個別的で唯一の歴史物語であるのに対し、現代の宇宙論は歴史の再構成でありながら、そこで使われるのは物理学の一般的な知識、つまり物理法則と宇宙の物理状態である。
 この科学的探求がより限定的、具体的に示されるのが進化論である。地球上の生命の誕生とそれ以後の生命の歴史が進化論の探求の範囲である。生命の進化は生命の歴史そのものであり、特定の惑星で起きた生命現象の歴史であり、これから起きると予想される未来の変化の予測に繋がっている。そして、私たちが歴史という場合は、人類の進化の歴史の僅かな部分を指しており、人類の歴史は生物進化の僅かな一部となっている。
 最後の対は個別の問題として大変興味深い対である。個体発生とは各生物個体の発生、発達であり、系統発生とは生物種の進化のことである。人間の個人の成長と、人間という種の進化は、20世紀の最後まで根本的に異なるもの、混同すべきでないものと受け取られてきた。だが、21世紀に入り、二つの間の密接な関係が改めて議論され直されることになった。最近流行しているのがEvo-devoと呼ばれる論争である。その原点は、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの生物発生原則にまで遡ることができる。進化と発生は異なる因果過程で、両者を混同すべきでないという伝統的な見解に対し、発生と進化をより密接に関わり合うものとして研究しようというのが近年の傾向である。
 天変地異に見られるような急激な自然の変化を適確に理解し、対応するためには現実を因果的に見る必要がある。台風が去って平穏になったら、その爪痕をじっくり見定め、現実離れした上で、十分な情報と論証を通じて次の台風に備える手続きを考え出さなければならない。現実を掴むための因果性と現実離れすることによる論証は両者を巧みに組み合わせることによって、決定的な手続きを生み出すことができる。これは最終的に因果的決定論によって生活世界をコントロールしようとすることに繋がっていく。因果的決定論の最も精緻なスタイルが古典的世界観の中で主張されるラプラスの普遍的決定論である。決定性は論証のシステム化から導かれ、それが因果的な変化に適用されることによって生み出されたのが因果的決定論である。これは古典的世界観の成果であり、当然のように私たちの生活世界のあちこちに顔を出すものである。因果的決定論に支配される古典的世界観とそれを下敷きにした生活世界は、非古典的な物理学とそれが主張する世界観が議論され、断片的ではあって新しい世界の姿が垣間見えることによって、その真の意義が明瞭になってくる。つまり、古典的世界像の意味は非古典的世界像の提案によってよりはっきりしてくる、という訳である。