神話、物語から哲学、科学へのパラダイムシフト(2)

<神話学史瞥見:因果性の起源>
 物語の原型としての神話について考えてみよう。神話に関する研究は神話学と呼ばれ、19世紀の神話学はダーウィンの進化論の影響を受け、歴史的だが、20世紀の神話学はソシュールの構造言語学フロイト精神分析の影響を受け、非歴史的だと言われている。
 神話学の先駆者マックス・ミュラーは、神話は自然現象に起因すると考え、比較言語学を使って最古の資料と言われる『ヴェーダ神話』の神々の名前を比較し、神話の神々が天体や自然現象を司ることから、天体の動きが神話を生み出したと考えた。私たちの祖先は天体現象から受ける畏敬や畏怖を人格的に表現したが、これが後に人格的な存在が登場する神話に変わったと彼は推測した。
 ジェームズ・G・フレイザーミュラーと同じく進化論的な神話の捉え方をしているが、神話の起源に対しては異なる考えをもっていた。ミュラーが神話の起源を天体現象と考えたのに対し、フレイザーは地上の文化現象にその起源を求めた。神話は宗教の儀典や儀礼から取り出された、というのが彼の神話儀礼説である。フレイザーはこの説に基づき、ネミの森で行われていたという王殺しの風習と死んで甦る神々の神話を『金枝編』で詳しく述べている。神話は呪術的な儀礼を説明するためにつくられたのであり、その起源は人々の社会構造に起因し、社会の変貌を呪術-宗教-科学の三段階に分け、神話は呪術と宗教の間に位置すると考えた。
 ジョルジュ・デュメジルインド・ヨーロッパ語族の神話を比較し、「伝承圏」という概念を提唱した。それはアンブロシア伝承圏と呼ばれる、不死の飲料を巡る神々とその敵対者の争い、それを表す神話と儀礼からなっている。彼は神話と儀礼を同地位のものと捉え、両者の複合を探求した。この後、三機能体系という世界観を提唱し、インド、ローマそしてゲルマンの神話では神聖性、戦闘性、生産性の三つが世界を構成していると考えた。インド・ヨーロッパ語族に固有の世界観を求めていたデュメジルは、ゲルマン神話をこれに当てはめることで説明しようとした。
 レヴィ・ストロースは、神や英雄がもつ個々の名前や役割よりも、神々や登場人物たちの関係の背後にある「体系(system)」に注目し、言語学を駆使して神話の構造分析を行い、神話の普遍性を強く主張した。彼はフロイトの発見した無意識、そしてその弟子ユングが提唱した普遍的無意識と元型にも影響を受けているが、ユングが軽視した論理的な構造や体系性を重視した。神話には様々な対立や矛盾があるが、彼はこの矛盾や対立こそが神話を解く鍵と考えた。
 ミルチア・エリアーデは、キリスト教が世界を席巻していた時代、原始的な宗教こそが重要で、歴史主義のもとで発展した唯一神への信仰ではなく、様々な神々が存在する神話の世界が重要だと考えた。彼は神話が起源神話であるべきだと主張する。エリアーデは歴史主義もしくは歴史そのものに対して否定的で、現実世界と区別して、神話の世界は非歴史的で無時間的であり、古代における宗教を現代にも呼び覚ます必要があると唱えた。
 無意識という概念を取り入れた20世紀の神話学は、人間の思考やその精神的な存在の在り方といった、精神世界に視点を移していくことになる。オカルト的で、形而上的な傾向が最も強く現れる神話学者がジョセフ・キャンベルである。エリアーデと対照的に、キャンベルは英雄神話こそが神話であると考える。しかし、エリアーデとキャンベルが取り上げる神話には共通するものが多いが、それは、エリアーデが神話の始まりに注目するとしたら、キャンベルは主人公に注目するといった、視点の相違に過ぎないからである。彼は著書『千の顔を持つ英雄』で神話とは真実を覆い隠す仮面であると述べている(映画「スターウォーズ」がキャンベルの考えに大きな影響を受けてつくられていることはよく知られている)。
<日本の国づくり神話>
 ここで日本の神話について振り返っておこう。『古事記』は日本最古の歴史書で、元明天皇の勅命により和銅5年(712年)に太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された。神代から推古天皇(592年即位)の時代までが上・中・下の3巻に記されている。『日本書紀』は舎人親王らの編集で養老4年(720年)に完成した日本最古の正史で、神代から持統天皇(697年即位)の時代までが記されている。全30巻・系図1巻の長編である。日本の起源神話がどのようなものか、振り返ってみよう。

日本神話は天地と神々の始まりの物語であり、天つ神の命令でイザナギイザナミが日本の国を生むという神秘的な場面が描かれ、死んだイザナミが送られた黄泉国(死後の世界)までも生々しく語られている。イザナギイザナミは二度目の交わりによって、淡路島・四国・九州・隠岐壱岐対馬佐渡・本州という『大八洲大八島(おおやしま)』を産む。黄泉国では、黄泉国の竈(かまど)で炊いた食物を食べる『黄泉戸喫(よもつへぐい)』をしてしまうと現世には戻れないという決りがあり、イザナミは既に黄泉戸喫をしてしまっていた。イザナミは何とか現世に戻して貰おうと黄泉の神々に相談してみると言い残して別室にいくが、いくら待っても戻ってこない。待ちきれなくなったイザナギは櫛の歯を折ってそれに火を灯し、部屋の中を覗きこむと、美しく可憐なイザナミの姿は無く、腐敗して蛆が湧き悪臭を放つ、変わり果てたイザナミの姿があった。彼女を盗み見たイザナギに激怒したイザナミが追いかけてくる。イザナギは現世と黄泉国の境界にある『黄泉比良坂(よみのひらさか)』でイザナミに追いつかれるが、そこを巨大な岩で塞ぎこみ、イザナミとの離婚を宣言した。これに激昂したイザナミは「黄泉国の神となってあなたの国の人間を一日に千人殺す」と脅すが、それに対してイザナギは「ならば、私は一日に千五百人の子どもを産んで更に産屋を立てよう」と言い返した。
*国生みの神話については次のものを参照した。戸部民夫『日本神話-神々の壮麗なるドラマ(Truth in Fantasy)』、新紀元社、2003。

 長々と「神話とは何か」についての答えを眺めてきた。これほど寄り道する必要はないのだろうが、科学だけに人々の関心が向かってきたのではなく、神話や物語にも多大な関心と興味が向けられてきたことを憶えておくためであり、何より因果性が生活世界の最初の原理であることを莫大な神話や物語の存在が示していることである。古代人の生活世界が因果的であることは因果的な神話や物語がその動かぬ証拠であり、その基本的性質は私たちの生活世界に至るまで文化的に保存されてきたようである。それゆえ、私たちは因果的でない変化を適確に理解するのが因果的な変化の理解に比べると得意ではない。はっきり言って、大変不得意である。
 「神話とは何か」に関しても実に様々な意見がありながら、それら穿った解釈の根本には起源神話が歴然と存在している。因果的構造のもつ揺るぎなき安定性は生活世界の最も根幹に因果性があることの証拠となっている。因果性が私たちの生活そのものを支えている。因果的でない生活は神話や物語の存在そのものを否定するものであり、それゆえ、神話や物語をもつ私たちの生活世界は因果的なのである。
 「神話とは何か」に答えても、個々の神話が述べている内容がわかる訳ではない。同じように、「理論とは何か」という問いから個々の理論が何を述べているかはわかる筈もない。幸い、私たちが信頼できそうな理論は神話より遥かに少ない。また、理論同士の優劣の判定は神話同士のそれより遥かに単純である。それゆえ、神話から世界の有り様を探るより、理論から世界の有り様を探る方が余程信用できそうである。この辺のことを次に考えてみよう。