コイン投げは確定的か、それとも確率的か(2)

4ラプラスの魔物は遺伝の確率モデルを扱えるか?
 前の議論はいかにももっともらしく見える。偏りのないコインであれば、各々裏表の出る確率は1/2 である。このコイン投げを力学的に扱えば、誰がいつコインを投げるか、どのくらいの力でどの方向に投げるか、着地する面や空気抵抗はどうか、等々の多くのことを考慮して、コインが投げられてから着地するまでの軌跡が描かれることになるだろう。仮にそのようなモデルがつくられたとしてみよう。コイン投げの確率モデルはこの力学モデルに還元できるだろうか。(力学)還元主義者の主張はこの還元が可能というものである。確かに、想像上は可能のように見える。これが誤っているというのがこれから述べることである。コイン投げの力学モデルは想像できるが、コイン投げの確率モデルをその力学モデルに還元することは上手く想像できない。コインを投げると裏か表が出る。そこで今裏が出たとしてみる。すると、力学の鉄則に従って裏の出た理由は原因に求められる。これは物理学全般に成立している対称性の原理の一例であった。表ではなく裏が出たのであるから、そのバイアスのある結果の源は原因のバイアスにある。裏が出た場合、コインを投げるときの条件に裏を結果するものが含まれており、それゆえ、コイン投げというシステムの時間発展によって裏が出たと考えられる。これが裏の出るコイン投げの初期条件である。ここで忘れてならないのはこのコイン投げは特定のコイン投げであり、1 回毎にその力学的な記述は微妙に異なっている。2 回目にコインを別の人が投げた場合には、異なるコイン投げの力学的な記述が得られる。とにかく、このようにして私たちはコイン投げの力学的なモデルを確かに想像できる。このようなモデルとコイン投げの確率モデルを比べてみよう。
 コイン投げの確率モデルは裏と表の基本事象からなっている。これら基本事象の集合を考え、その部分集合の全体が事象を構成し、それら事象に確率測度が与えられている。1 回の偏りのないコイン投げでは各基本事象は1/2 という確率測度をもつ。このモデルはコイン投げの時間発展を述べたモデルではない。コインをどのようにいつ投げるかといった具体的なことについては何も述べていない。コイン投げの時間的な変化は、したがって、このモデルからは何も言えない。唯一言えるのは、偏りのないコインという記述だけである。
 これら二つのモデルは互いに両立するのか。私たちはそれぞれのモデルを想像できるし、その想像は単なる想像ではなく、それぞれ力学、確率論という理論的な裏付けをもっている。地震がどのように起こるかという経緯とそれがどのくらいの確率で起こるかということは両立すると自然に考えられているし、毎日の天気もその時間的な変化とそれが起こる確率は同じように並列的に考えられ、そこに何か矛盾があるようには受け取られていない。その理由は、私たちが力学的なモデルと確率的なモデルを時間をずらして適用することによって両方が同時には適用されないように工夫しているからである。「元旦は晴れる」という事象は元旦以前には確率的な事象と解釈され、元旦、あるいはそれ以後には実現の経緯が記録として書き記されることになる。同時に二つのモデルを併用するのではなく、時間をずらして別々に使うことによって両立させている。もし時間をずらさなかったら、一つの現象に対して二つのモデルがあり、それらモデルは異なることを主張していることになる。一方は決定論的に現象が生じることを、他方は非決定論的に生じることを主張している。一つの現象に異なる二つのモデルがあることに対して次の二つの態度が考えられる。

態度1:モデルの一方が正しく、他方は誤っている。大抵の場合、力学への伝統的な信頼から誤っているのは確率モデルであるとされる。そして、その誤りは文字通りの誤りというより、私たちが確率モデルを用いるのは事前に十分な情報をもっておらず、不完全な情報のもとに確率概念を不可避的に用いざるを得ないからであると説明される。
態度2:二つのモデルは私たちの視点の相違であって、両立すると考える。視点の相違は、モデルの全く異なる組み立てから説明される。現象を眺める私たちの視点には今の場合、二つの異なる視点があり、それらは一方が正しく、他方が誤っているというようなものではない。錯視図形を見る際に、一方の見方が誤っており、他方の見方が正しいのではないように、それは単に視点の違いに過ぎない。

 二つの態度のいずれに軍配を上げるか、あるいは第三の態度を取るべきか、その決着は確率モデルが力学モデルに還元できるかどうかを考えた上でつけることにする。

5公平なコイン
 ところで、そもそも偏りなくコインを投げることはできるのか。もし、裏か表のいずれかが出て、かつ対称性原理が成立していれば、偏りのないコイン投げは不可能である。裏か表のいずれかが出るということが偏りの存在を含意するからである。これが意味しているのは、確率モデルの設定が力学モデルの設定と異なるということである。したがって、単純に確率モデルを力学モデルに付随させることはできない。確率モデルと力学モデルの出発点の違いが単純に一方を他方に付随させることを阻んでいる。「偏りなくコインを投げる」ということは力学モデルをどのように工夫してもモデルとして実現することはできないが、確率モデルではそれが可能となる。確率モデルにおける「偏りなくコインを投げる」という事象は物理的に実現可能なことではなく、私たちの「約定」である。この約定が経験的に正しいものかどうかは当の確率モデルがコイン投げの実験に合うかどうかに依存している。「偏りのないコイン投げ」という初期条件の設定は力学的なモデルのどこにも還元できない。これだけでも還元可能性に関しては致命的であるが、次の理由も同じように重要である。
 力学モデルは個々のコイン投げについてのものであると述べた。それに対して確率モデルはどうであろうか。それは何回という指定を明確に含んでいない場合が多いし、コインを投げる順序は普通問題にしない。一方、力学モデルではこれらが必然的に付き纏う。一方は振る順序や回数が曖昧であり、他方はそれらが正確でなければならない。このような二つのモデルの間にどのような還元を考えたらよいのか思いもつかない。
 結論に至る前に上の議論への反論を考えておこう。それは次のような反論である。

(反論)
 コイン投げに使うコインに物理的に偏りがない、そして偏りなく投げるという仮定を置くことがそもそもできるのか。もし偏りのないコインの偏りのないコイン投げが、幾何学的対象としての三角形が物理的に存在しないように、物理的に存在しないとしたら、確率モデルの組み方自体が物理的に実現可能な組み方に制限され、「偏りなくコインを投げる」というモデルは取り除かれ、物理的にありえないことになる。したがって、力学モデルで「偏りなくコインを投げる」という初期条件がないのはむしろ正しいのではないか。実際にコインを投げる場合、コインの上の面は表、下の面には裏というように非対称の状態からコインを空中に投げなければならない。裏表の区別のあるコインは対称ではない。確率モデルは偏りのある、非対称的なコインを偏りがないとみなすという点で幾何学的な理想化によるモデルであるに過ぎない。

(返答)
 個々の確率モデルをつくるのに「偏りなくコインを投げる」ということは不可欠でないどころか、モデルの定義上必要でさえない。バイアスのあるコイン投げでも一向にかまわない。バイアスがあれば、それを考慮した確率測度を定めればよいだけである。そのような多様な確率モデルの組み方の中に「偏りなくコインを投げる」場合が含まれているだけである。それが重要であるのは、力学の法則を思い出してみればよい。力学の法則はいずれも理想的な条件の下での法則である。実際には空気抵抗や摩擦、重力のために物理的な状態変化そのものの法則ではない。それはまさに理想化された条件の下での法則である。そのような理想化された法則をもとにつくられるのが力学モデルであった。確率モデルも力学モデルと同じように理想化された場合を考えることに躊躇する必要はない。それどころか、そのような理想化された条件は確率モデルを理論的に扱う際に不可欠である。「偏りのあるコイン投げ」の場合は反論が主張する通り、特定の偏りを初期条件にするような力学モデルをつくることができる。肝心なのは、「偏りのないコイン投げ」という場合が特定の確率モデルでは必要なくても、確率モデル全体について考える際には不可欠であるという点である。
 以上のことは確率モデルを力学モデルに還元することが不可能であることを示している。「偏りのないコイン投げ」に象徴される確率的な事態、特に任意交配についての確率モデルを力学モデルに還元することは不可能である。したがって、情報欠如のみによる確率モデルの使用という考えは否定される。二つのモデルは根本的に異なるモデルであるから、力学モデルの不完全なモデルが確率モデルではない。では、この還元不可能性をもたらしたものは態度2で述べられた視点の相違であろうか。私は視点の相違であると思う。しかし、視点の相違とはそもそもどのようなことを意味しているのか。視点という哲学者にとって都合のよい言葉は視点にまつわる問題の解決を阻んできたように思えてならない。力学モデルと遺伝の確率モデルに執着して、そこでの視点の相違とは何かをじっくり考えてみる必要がある。この視点の相違は、自然選択を力学的な力に似たものとし、力学モデルを手本にしたモデルで考える場合と、自然選択をバイアスのかかったサンプリングとし、確率的なモデルで考える場合とに大きく分かれるほどの重要性をもっている。

 このような議論はフラストレーションが溜るだけである。コイン投げは一体確定的なのか、それとも確率的なのか、はっきりしない。また、確定的とはどのようなことなのか。確率的とはどのような意味なのか。すべてが曖昧模糊としている。コイン投げという実に簡単な出来事がどのようなものか、それがわからないというのはとても気になることである。

確定的とはどのようなことか
確率的とはどのようなことか
二つの違いは何か

これらのことをこれからじっくり考えていこう。このような曖昧な事柄を合理的な論拠に基づき、明晰に議論を展開し、判明な結論を得るというのが哲学のギリシャ以来の伝統だった。その歴史を念頭に置きながら、真相に迫ってみよう。ここまで述べてきた内容は決して誤っていない。曖昧で、ぼんやりしているだけである。それらを予備知識として以後の議論を展開していこう。