自分についての知識と他人についての知識(2)

(1)デカルト的方法:自己知識をモデルにした理論
 デカルトには自分自身の心についての知識を説明の出発点にするという姿勢が顕著に見られる。彼の「第二省察」の最後に知識の本性に関する考察がある。ある人が対象の時間的な変化にもかかわらず、その対象の知識をもち続ける際に、その人は何を知っているのか。これが彼のもった問いであり、それを蝋を使って考えた。蝋についての知識はその感覚的な性質から得られる知識である。しかし、デカルトによれば、蝋はあらゆる変化を被りながら感覚的な性質を変えていくが、「それが蝋である」という私たちの知識は変わらない。ここから彼が得る否定的な結論は、蝋が変化するにもかかわらず明確な蝋の知識が得られるのは感覚的な観察によるのではないということであった。そして、デカルトは蝋の知識に関する別の説明を提案する。蝋の知識は変化する感覚的知識ではなく、蝋の変化を通じて保存されるものの知識である。蝋の物理的な変化を通じて不変なものは蝋自体の中にはない。それは私たちが蝋についてつくる観念である。蝋自体の知識は特定の蝋についてのある人自身の観念の知識である。デカルトにとって、蝋の知識の直接の対象は蝋自体ではなく、蝋の観念である。この目論見では、私たちは世界を直接に知るのではなく、世界についての知識は直接に知られるもの(=世界についての私たちの観念)から推論によって導き出されるものである。

(問)デカルトによると、蝋と蝋の観念は何が異なるか。

[自己知識のデカルト的モデル]
 デカルトは自己のもつ観念には二つの特徴があると考えた。まず、それは私的な領域の知識である。したがって、その人自身にしか近づくことができない。二番目に、この知識は誤ることができない知識である。私的な意識のなかで起こるものは自らに直接に結びついているので、途中に誤りの入る余地はない。
 心が本質的に私的であるというのは法律上のものではなく、形而上学的なものである。原理的に、ある人自身の心で起こっていることに近づくことは他人にはできない。このように考えると、心はその所有者以外が立ち入ることのできない完全にその人の私的な劇場のようなものである。この比喩では他人の心を知る可能性が排除されているように見えるが、そうではない。劇場に直接入らなくとも中で何が上演されているかは知ることができる。しかし、直接知ることはできない。このようなデカルト的枠組みは次の三つに整理できる。

1自己知識は今まさに起こっている観念の知識である。
2これら観念はその人自身にしか近づくことのできないものの中にある。
3その中のものの存在と内容についての知識は誤ることのないものである。

その人自身の知識という考えは観念自体の本性に向けられることになる。デカルト的な哲学は観念についての考察を通じて、観念についての説を心的表象(mental representation)に対して使うことになる。また、志向性の類似説もここから出てくる。
 観念が心的表象であれば、それらが何を表象するかを決めるものがなければならない。牛の思考についての何かが、その思考は牛についてのもので、馬についてのものではないことを決めなければならない。観念が表象するものを決めるのはその観念の何なのか。心像説は、観念が心像であるゆえに観念の表象するものを決めると主張する。では、どのように心像は表象に成功するのか。それを説明するのが志向性の類似説である。像はそれが表象するものに類似することによって表象するというのがこの説である。この説が心的表象に適用できるとするなら、心的表象自体は絵画的な特徴をもっていなければならなくなる。心像説はこのことを主張しており、観念は心眼による絵画のような像である。
 こうして、その人自身の観念を知るとは、「その人の心の劇場にある心像をその人の心の眼で見ること」である。この比喩的な表現を避けようとすれば、内観(introspection)という概念を用いることになる。心の眼で見るとは内観することである。

(問)牛を見て、その表象をもち、それを内観するとき、内観の内容は牛なのか、それとも牛の観念なのか。

*表象、内観、知覚といった表現について、デカルト、ロック、ヒューム、バークリーはそれぞれどのように考えたか、その違いを調べてみよう(representationalism、知覚-表象-観念-対象)。

[他人の心の知り方]
 デカルトの自己知識は私的で他人には近づくことができないということを考えれば、他人の心を直接知ることはできない。では、他人の心が存在することをどのように知ることができるのか。この問いに対する答えはミルによれば次のようになる。まず、その人自身の心とその人自身の身体の間に因果関係があることはその人の自己観察からわかる。第二に、他人を観察することからその人の身体の運動についての知識を獲得する。第三に、他人の動きで観察された系列と自分自身の観察による系列を比較することができる。第四に、他人の観察が増えるに連れ、自分の観察と比較しながら、自分の動きの場合と同じ型の原因が他人の動きにもあるということを確かめることができる。最後に、自分の身体的な動きの原因は心的な原因であることを既に知っているので、他人の場合も同じであると結論できる。そして、このようなアナロジーをもとにして、世界には自分自身と同じような他人も存在すると結論できる。この推論の系列は他人の心の存在だけでなく、それがどのようなものかを決める方法も示している。こうして、他人の心の存在とその働き方がわかることになる。

(問)ミルによれば、自分についての観察と他人についての観察に違いはあるのか。