自分についての知識と他人についての知識(1)

 私たちは自分自身について何をどのように知っているのだろうか。例えば、この曖昧な問いをよりわかりやすく、具体的に表現し直してみると、次の二つの言明をどのように受け取るかということになるのではないか。

自分のことは自分にしかわからない。
他人が自分をどう見ているかわからない。

自分の心の内はわかるが、他人の心の内はわからない。この常識を述べたのが上の二つの言明だと考えるなら、「わかる」ことも常識での意味であり、生活世界での常識を確認すれば、上の二つの言明を素直に受け入れるのが常識人ということになるのだろう。
 では、自分のことがわかり、他人にどう見られているかもわかるための心の理論があるだろうか。自分と他人を同じように捉える理論があるのだろうか。

デカルト的な自己知識
 ここでは科学的な心の研究から離れて、伝統的な哲学の問題を伝統的なスタイルで考えてみよう。哲学的議論は経験的な知識が不足している場合に有効で、しばしば推論に推論を重ねるということになる。そこにはアブダクション帰納法、アナロジーがふんだんに使われ、既知の知識、常識との整合性あるいは対立が推論の健全さの目安となる。通常、その結果は議論の長さに比して僅かなものである。以下の議論もこのような特徴をもっている。
 自己についての知識と他人についての知識に関する問いは哲学のなかだけでなく、日常生活でもよく登場する問題である。デカルトが自己知識(self knowledge)を強調して以来、それは私的で内的な世界で進行する意識的な知識であり、私だけが特権的に知ることのできるものと一般に受け取られてきた。多くの人が、「私のこの気持ちは誰にもわからない。私だけが知っている」と呟いたことがあるだろう。このような直接に知ることのできる、証拠のいらない、自分自身についての知識と対照的なのが行動の観察を通じて得られる環境や他人についての知識である。心の科学はこのような観察による知識に基づいている。日常生活でも他人の観察とその結果の利用は実に重要な役割を演じている。

[自己知識(self knowledge)]
 自己知識に関する最初の明確な表現はデカルトのものである。各個人が自らの心について唯一の、特権的な立場を取ることができるという主張はデカルトの深い哲学的な直観であった。人が自分自身の(信念、欲求、思考等の)心的状態についてもつ考え、意見を「一人称の意見(first-person opinions)」と呼ぶことにすると、自らの心に対して特権的であるとは、自らの心的状態について信頼できる意見をもつということである。一人称の意見が表明される言明を「一人称の報告(first-person reports)」と呼ぶとすると、それらは「私は考える」、「私は信じる」、「私は疑う」といった表現を含んでいる。それら報告は、まず心的状態の内容、次に、話者本人のその内容に対する態度を含んでいる。つまり、一人称の報告は、ある人の心的状態の内容とその内容に対するその人の態度の両方に関する一人称の意見を表明している。一人称の報告を使って、自己知識に関する仮説を再度書き記しておこう。

一人称の報告は、その人が何を信じているか(疑っているか)を確定しようとする時には特権的である。

これを「一人称特権説」と呼んだとすると、どのような理由でこの説が認められているのだろうか。心をもつということのなかには自らの心の状態について知る立場にあることが含まれている。これを「可知仮説」と呼んだとすれば、一人称特権説から可知仮説が導き出され、一人称特権説は心の概念の一部をなしていることがわかる。可知仮説はデカルトと信頼可能性理論の違いの重要な一つであった。可知仮説は心的状態と物理的状態の違いを捉えている。「雨が降るだろうと考えている」ような心的状態と体重が65キロだという物理的状態は何が異なっているのか。「雨が降るだろうと考えている」状態にある人は自分が「雨が降るだろうと考えている」状態にあることを知っている。ある心的状態にあることとその心的状態にあることを知っていることの間には強い結びつきがあるように思われる。一方、自分の体重が65キロであること(65キロの状態)を知らない人はたくさんいる。体重65キロとそれを知っていることの間には何の結びつきもなさそうである。それは偶然的なものである。可知仮説がないなら、一体どのように心的状態について話ができるのか。一人称の報告をそもそもどのようにつくることができるのか。このような点から可知仮説は正しいようにみえる。
 可知仮説が想定している知識はどのようなものか。私たちは自分自身の考えを知る時、その証拠を求めない。その知識の獲得には証拠を集める必要がない。その意味で一人称の意見は無根拠(groundless)である。この無根拠という性質を使って自己知識の仮説を書き直すと、

一人称の報告は、その人自身の心的状態を確定する時にはその本性上無根拠である、

となる。哲学が議論の出発点とする第一の原理、それ自身は何かによって基礎付けられることがない原理という特徴を自己知識の仮説はもっていることになる。これは既に述べた基礎付け主義には願ってもないものである。
 では、心をもつことが自分自身の心的状態を知る立場にいることであるという可知仮説は疑う余地はないのか。日常経験は疑うことができる理由を与えてくれるように見える。太郎は哲学の試験が簡単だと考えていると自分で言ったとしてみよう。彼の一人称の報告は「哲学の試験は簡単だと私が信じている」という内容である。だが、実際には太郎は毎日試験勉強に励み、彼が信じていると言ったことを本当は信じていないような行動をとっていたとしてみよう。私たちは彼の行動からその一人称の意見は嘘であると言うだろう。太郎は哲学の試験が簡単だと自分で誤って信じていると私たちは思うかもしれない。実際、彼は簡単だと信じていない。このような自己欺瞞があるなら、私たちは自己知識が完璧で完全であることを否定しなければならない。ところで、可知仮説には知識が完璧で完全であるという条件は入っているだろうか。そのような条件は可知仮説には含まれていない。

(問)可知仮説と知識の信頼可能性理論はどのような関係にあるか。
(問)「空が青い」ことと「空が青いことに気づく」ことの違いは何か。

[他人の心の知識についての仮説]
 他人の心的状態の知識を手に入れることができる場合があるという仮説について考えてみよう。これは仮説というより、日常当たり前のことである。他人の気持ちを知るということは日常茶飯事のことであり、他人の気持ちの報告が正しいかどうかはその報告内容に十分な証拠があるかどうかによって決定される。そして、私たちの社会生活はこの仮説が正しいというもとで成立している。実際、社会科学はこの仮説無くしては研究不可能である。社会心理学が扱うのは他人の心であって、社会心理学者自身の自己知識ではない。