デカルト:心の哲学の出発点

デカルトの推論の誤り]
 心と身体の間にはどのような関係があるのでしょうか。この問に対して、心と身体は二つの異なる実体であり、それらの間には因果的な相互作用がある、というのがデカルトの解答=主張です。このデカルトの伝統的な主張は今でも私たちの日常生活での基本的な常識となっています。憂鬱になれば、身体活動は鈍る、病気になれば、心が暗くなる、このような心身の密接な結びつきを前提にして私たちは毎日を過ごしています。このような伝統的態度とは違って、20世紀に展開された心の諸説の特徴は圧倒的に反デカルト的なのです。デカルト的な解答は自然主義的な解答ではないこと、20世紀の諸説は自然主義的であること、この二つから自ずと20世紀に展開された諸説の大半は反デカルト的ということになります。まず、デカルトの主張を推論の形で批判的に復習してみましょう。

デカルトは自分が心をもつことを疑うことができない。 
デカルトは自分が脳を持つことを疑うことができる。
それゆえ、心と脳は別のものである。

*ここで結論を主語を前提と同じに「デカルトは心と脳は別のものであると考える」としたら、この推論は正しいでしょうか。

「心をもつことを疑うことができない」が、「身体をもつことは疑うことができる」とデカルトは考えました。そこから、彼は心と身体が異なることをライプニッツの不可識別者同一の法則(AとBが同一とは、Aのもつ性質はみなBのもつ性質であり、その逆も成立する)から導き出すのです。ここで次のような例を通じて上の議論がある誤りを含んでいることを見てみましょう。その誤りはフレーゲの意味論的な指示(reference)と意味(sense)の違いに関係しており、命題的態度(propositional attitude)と志向性(intentionality)という概念を通じて考えられてきたものです。

太郎は明けの明星を観察したい。  
太郎は金星を観察したくない。

ここにライプニッツの法則を適用するなら、太郎が観察したいという性質は明けの明星にはあるが、金星にはないことから、明けの明星と金星は異なるものとなります。これは明らかに誤っています。「明けの明星」と「金星」は同じ対象、つまり金星を指しているからです。

太郎は明けの明星を観察する。  
太郎は金星を観察する。

上の文では明けの明星と金星は同じものです。これは、太郎が明けの明星を観察したい、金星を観察したくないという事実と何ら矛盾しません。同様に、

私は脳をもっている。  
私は心をもっている。

という二つの文について、一方を疑うことができ、他方は疑うことができないということだけから、脳と心が異なる性質をもち、異なる対象であるということは結論できません。
「疑う」や「望む」は命題に対する私たちの心的な態度です。たとえある命題が疑われ、他の命題が疑われなくても、最初の命題が述べているものと二番目の命題が述べているものが異なるということはそこからは導かれません。「私が脳をもっている」と「私が心をもっている」が異なった命題であって、一方は疑うことができ、他方は疑うことができないとしても、そこから脳と心が異なるということは結論できないのです。
 したがって、デカルトの論証は誤っていたということになります。つまり、デカルトの論証から、心と脳は異なるという結論は出てこないのです。しかし、このことから心と脳が同じことも、心身間に相互作用がないことも、どちらも証明された訳ではないことに注意して下さい。

(問)意味と指示の違いをフレーゲはどのように考えたか述べなさい。

(問)上の問から、信念と事実の違いはどこにあるか、再考しなさい。

 デカルト以後、心身関係や心の構造について多くの試みがなされてきました。その中には実に優れた考察が数多く含まれています。とはいえ、組織的に心を研究し出したのは20世紀に入ってからです。そこで、歴史には忠実でないが、20世紀の組織的な研究の追及に話を移してみましょう。

(問)心身二元論の図式で想定されている心的レベルと物理的レベルの相互作用はどのようなものと考えたらよいでしょうか(物理世界での通常の因果的な相互作用、社会の中での相互作用と比較すると、心身の相互作用はどのように異なっているでしょうか)。