ザクロ(柘榴)

 ザクロの果実は爽やかな酸味に溢れ、私の口の中に広がった。自分の家に柘榴の樹がなかったゆえか最初の直感的な印象はエキゾチックなもので、他の果実とは違って異国のものと信じ込んでしまった。それはまんざら間違いではなかった。ザクロは果実の中に赤い果粒がたくさん詰まっていて、さわやかな甘味と酸味、独特の食感が特徴。歴史は古く、5000年も前から栽培されていて、旧約聖書や古代の医学書などにも登場する。今ではあちこちでザクロの木を見かけるが、日本ではほとんどが観賞用。

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 ザクロ科はザクロとプロトプニカザクロの二種からなる。プロトプニカザクロは南イエメン領のソコトラ島の固有種だが、世界中で栽培されているザクロの原産地はバルカン半島からヒマラヤ東部にかけての「西域」。ザクロは原産地の西域の人々にとっては重要な果樹の一つ。甘い果汁に富み、旅人の渇いた喉には心地よい。ザクロの用途は食用だけにとどまらず、獣皮をなめすのに使われる。また、花や未熟の果皮からは赤い染料がとれる。
 薬用植物としての利用も古くから行われてきた。ディオスコリデスが紀元1世紀に著した『薬物誌』にはその薬効が詳しく記されている。西域では古代から無数の種子を持つザクロは豊穣多産を象徴する「吉祥果」と考えられていた。
 ギリシャ神話には、冥界の王ハデスに連れ去られたペルセフォネがザクロを食べさせられたため冬の間は冥界で暮らさなければならなくなる話がある。これは、赤い果実は死者だけに供えるものとしたギリシャの禁忌とザクロを豊穣多産の象徴とする西域の思想との複合の産物。さらに、ザクロはイチジクやブドウとともに旧約聖書にも頻繁に登場する。ウフィッツ美術館所蔵のボッティチェッリの『マニフィカトの聖母』やチェステルロ修道院聖堂の『聖告』などにザクロを持つ幼いキリストが描かれている。
 西域に生まれ育ったザクロは、やがて地中海域から新世界へと伝播していった。ローマ時代にはすでに南ヨーロッパ全域とアフリカの北部にまで広まっていたらしい。イングランドには14世紀に渡り、16世紀中葉には広く栽培されていた。 
 東アジアへはシルクロードを通って伝播した。一般には、前漢使節として18年を西域で過ごした張騫がその種子を中国へもたらした最初の人物とされているが、残念ながら確証はない。「安石榴」や「塗林」というザクロの中国名が文献に現れるのは3世紀に入ってからである。
 では、日本へ渡来したのはいつのことか。これも正確な記録はないが、平安時代中期の『本草和名』の「安石榴」の条に「和名左久呂」と記されているので、10世紀までには渡来していたにちがいない。ザクロは日本では鬼子母神(訶梨帝母)信仰と結びついたものだった。訶梨帝母はインドの鬼神パーチンカの妻で500人もの子を産みながらも、他人の子をとって食っていた夜叉で、後に仏門に帰依し、安産と幼児の守り神に変身したハリティーのことである。このハリティーもその手にザクロを持っている。インドでもザクロの実を豊穣多産のシンボルとみなしていたからである。

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