デカルトの基礎付け主義(2)

[三つの不可能性、あるいは必然性]
 ここで、「不可能性」がもつ三つの異なる意味を取り上げてみよう。その三つの区別は論理的必然性、法則的必然性、状況的必然性に起因するものである。それら必然性は基本的に異なった必然性である。以下の三つの文はそれぞれ異なる必然性を表現している。

どんな人も既婚の独身者ではあり得ない。
どんな人も光速以上に速く走れない。
彼は病気で起き上がることができない。

最初の文は論理的な必然性を表していて、つまらない意味でいつでも真である。次の文は法則的必然性を表していて、相対性理論が適用できる世界では常に真である。つまり、最初の文は「既婚」と「独身者」の語の定義から論理的に正しく、相対性理論を前提にするなら、二番目の文は自然法則に従っているという意味で正しい。では、最後の文はどうか。これは自然法則からは出てこないし、また分析的でもない。この文は単に個別的な事実を述べたものに過ぎなく、病状に応じて必然的になるだけのことである。
 温度計の目盛りの値は、温度計が適切に作られ、適切な状況で使われるならば、法則的必然性から、正しくなければならない(誤ることができない)。ここで、次の論証を考えてみよう。

Sは今Sの前にあるのが黒板であると信じる。
Sは自分のいる環境で、その前に黒板がない限りその前に黒板があると信じないだろう。
それゆえ、Sの前には黒板がある。

上の論証には「信じる」が登場しているが、「知る」は含まれていない。では、知識と関係ないのか。信頼可能性理論では、Sは結論をその前提が真であるゆえに真であることを知る。しかし、Sは前提が真であることを知る必要はない。また、Sは前提に対して知覚経験とは独立の論証をする必要もない。これがデカルトと異なる点である。
 信頼可能性理論では、「Sがpを知る」ことは主体Sと命題pの他に三番目のものにも依存している。それはSの置かれた環境である。つまり、Sがどのような環境に置かれているかにも依存している。したがって、「Sがpを知る」は、

環境Eに相対的に、Sはpを知る
環境E’に相対的に、Sはpを知らない

ということになる。この環境が状況的必然性を与え、それによって「知る」、「知らない」が保証されるのである。
[知識の内在主義と外在主義]
 今までの話をまとめておこう。現代認識論では「外在主義」と「内在主義」という区別が知識の正当化と説明の両方において広く用いられている。認識上の正当化についての内在主義は信念が正当化されるために必要なすべての要素は主体が認識上それらに接近することができなければならず、したがって、主体の心の内側になければならないという見解である。それゆえ、デカルトの考えは典型的な内在主義である。これに対して、正当化に関する外在主義は正当化に使われる要素の幾つかは主体の認識的視野の外側にあることができるという見解である。知識に関する内在主義では正当化された真なる信念が知識であるためには主体はその信念が正当化されることを知るか、少なくとも正しく信じることが必要であるとされる。だが、知識に関する外在主義によれば、主体が知識をもつには正当化条件が成立しなければならないが、主体はその条件が成立することを知る、あるいは正しく信じる必要はない。主体は自分が知っていると考える理由をもたなくとも知ることができる。上述の信頼可能性理論は、したがって、外在主義の典型である。
 外在主義には上述の信頼可能性理論を含む信頼主義(reliabilism)の幾つかの主張がある。正当化と知識は完全に内在的であるという主張を否定するだけなのが外在主義であるのに対し、信頼主義は信念に対して知識や正当化されているという資格を与えるのはその信念を真にする事実に信頼できる結びつきがあるからだという積極的なテーゼをもっている。信頼主義が外在主義的であるのは、真なる信念を知識にする信頼可能性の関係を知っている必要がない点にある。ゴールドマン (Alvin Goldman) とドレツキ(Fred Dretske)は、ある信念が知識であるために真である以外に必要な条件はそれを真にする事実に対してある外在的な関係にあることだと論じた。外在主義(自然主義)的な関係によって、信念pが真でなければ、主体はpを信じないことが保証される。pを知るために信念は偶然的に真であってはならない。

(問)外在主義的な考えを使って、ゲチアの問題を考察してみよう。

 デカルトの懐疑とその克服、そして、デカルトとは異なる信頼可能性理論について述べてきた。すると、デカルトとは対照的に知識を扱い、異なる結論を導き出したヒュームを考えてみなければならなくなる。