知識について

 知識とは何かを最初に組織的に考えたのはプラトン。彼は『メノン』で知識と正しい意見の間には何の違いもないと述べている。『テアエテトス』では知識=知覚とする考えからスタートする。知覚は何ら意味論的な構造をもっていないゆえに、知識が知覚なら、知識を述べることができなくなり、知識=知覚は否定される。次に、信念は感覚的印象の意味論的に構造化された連結と想定され、知識はそのような真なる信念ではないかと提案する。だが、プラトンはこれに対してもどのように印象が連結されて意味論的構造が与えられているかわからなければ、真や偽の区別が信念に対してなされる理由がないとする。それで考えられたのがラッセルの論理的原子論に匹敵する理論で、命題と対象は単純な感覚的印象から論理的に構成された複合物であると捉えられる。アリストテレスは「基礎づけ主義」を最初に提唱し、すべての知識には基礎となる基本的な出発点があると考えた。その後、知識は認識論的転回の主人公となり、多くの哲学者によって哲学の主要な課題として研究されてきた。認識論(epistemology)の語源を探ると、ギリシャ語のepistemeが知識、logosが説明であるから、認識論は「知識についての説明」ということになる。実際、知識とは何か、 私たちはどのようなものを知り得るか、知識はどこから来るか、といった問題に対して、これまで様々に議論されてきた。そこで、認識論=知識論(theory of knowledge = epistemology)の基本的な事柄を考えてみよう。

知識とは何か
[「知る」ことの多様な種類]
 知っていること、知っているものは「知る」ことの結果であることから、知識は「知る」ことの分析を通じてその特徴を明らかにすることができる。実際、知識は私たちの知り方に応じてさまざまに分類されてきた。その代表的な分類は二つあり、「何であるか」の知識(know-what knowledge)と「どのようにするか」の知識(know-how knowledge)、そして、命題的な知識(propositional knowledge)と命題的でない知識(non-propositional knowledge)である。二つの分類は同じ分類に見える。名人の技は命題で表現できないように思えるし、「何であるか」という事実についての知識は命題によってしか表現できないように見えるからである。しかし、二つが同じ分類かどうかはわかっていない。また、「私は彼女の父を識っている」というように、面識がある、親しいといった「知る」の意味も忘れてはならない。

(問)次の文はどのような知識を表現しているでしょうか。
物理学を知っている
日本の首相を知っている
自転車の乗り方を知っている
彼の怒りを知っている
自分の生き方を知っている

 上の問いから気づく点がある。「自転車の乗り方を知っている」とわざわざ言うだろうか。「自転車に乗れる」というのが普通である。通常、「どのようにするか」のコツや技術は「知っている」とは言わない。また、同じように「怒りを知っている」とも言わない。「怒りがわかる」といった言い方をするだろう。このように、私たちの「知っている」の使い方は上の分類の一部に限定されている。ここで考える知識はより広い範囲のもので、事実に関する知識だけでなく、私たちが身につけることのできる知識すべてを含んでいると考えておこう。しかし、残念なことに知識の正確な範囲が確定しているわけではない。
[知識=正当化された真なる信念]
 ところで、知識、信念、真理(Knowledge, Belief, and Truth)の間にはどのような関係があるだろうか。知識には信念と真理が必要とされている。つまり、信念と真理は知識にとっての必要条件である。では、それらは十分条件か。この問いに対して次のような説を考えてみよう。それは知識についての「正当化された真なる信念」説である。正当化された信念とは、何らかの確かな方法で確認された信念である。実験や証言はそのような正当化の方法である。この説によれば、知識とは正当化された真なる信念(Justified True Belief)である。この説の主張を具体的に述べれば次のようになる。

どのような個人S 、命題pについても、S がpを知るとは次のことと同じである。
Sはpを信じる
pは真である
Sはpを信じる正当な理由をもつ
  
[「正当化された真なる信念」への疑問]
 さて、「正当化された真なる信念」説は正しいだろうか。この説が正しければ、正当化された信念と真理は知識の必要十分条件ということになり、私たちが常識的に考えている知識像が得られる。知識が単に信念や思いつきでないのは、それが正当化されている、証拠をもっている、理由をもっているからであると言われてきた。この伝統的な見解はプラトンの『テアエテトス』やカントの『純粋理性批判』において主張され、「知識とは正当化された真なる信念である」と要約されてきた。そして、この要約は20世紀中葉までほとんどの場合に受け入れられてきた。この伝統的見解に対し、正当化された真なる信念であっても知識とは呼べない場合があり、したがって、知識の伝統的な分析は誤っていることを示したのがゲチア(Edmund Gettier, 1927-)である(E. Gettier, “Is Justified True Belief Knowledge?”, Analysis, 1963, Vol.23, pp.121-123.)。彼は知識をもつとは言えないが、正当化された真なる信念をもつことができるような例をつくった。伝統的見解への彼の反例を見てみよう。

(物語)事務所に勤めているAは、誰かが直に転勤することを知っていた。信頼できる上司が転勤するのはBであるとAに告げた。その時、AはBの財布に1万円あることも知った。そこで、Aは次のように推論した。

1. Bは転勤し、財布に1万円もっている。
2. だから、転勤する人は財布に1万円もっている。

このようにAが推論することは正しく、何も問題はないように見える。しかし、実際に転勤させられるのはAで、そのことをA自身は知らず、その時Aもちょうど財布に1万円もっていたとしてみよう。その時、Aは2を信じており、また2は真である。Aはそれを1から演繹したのであるから、2を正当な理由から信じることができる。1は偽であるが、Aはそれを真であると考える十分な理由をもっている。したがって、(ゲチアによれば) Aは正当な理由をもとに2を真であると信じるが、Aは2を知らない。
 命題の形をした知識は三つの、それぞれが必要で、それら連言が十分である条件をもっている。それらは正当化、真理、信念である。真理条件は、どんな知られた命題も真であることを主張している。正当化条件によれば、知られた信念は証拠によって支持されなければならない。さて、上の例は正当化された真なる信念をもっているが知識とは呼べないような例になっている。Aが正当な理由で1を信じ、それに基づいてAは2を信じる。1は論理的に2を含意し、Aはそのことを知っているので、Aには2を信じる十分な理由があることになる。そして、2は真である。しかし、Aは2を知っていない。
 この推論の構造をわかり易く抜き出してみよう。1の命題をp、2の命題をqとすると、

1 pは真でない
2 Aはpを信じる
3 Aはpを信じる正当な理由がある
4 p⇒q
5 Aは(p⇒q)を信じる
6 Aは(p⇒q)を信じる正当な理由がある
7 Aはqを信じる
8 Aはqを信じる正当な理由がある
9 qは真である
10 だが、Aはqを知っていない

となるだろう。この例だけですべてわかるとはとても言えないので、次の簡単な例から信念と事実の間の微妙な違いを確かめてほしい。

ラッセルの例)公園の信頼できる時計:散歩の途中で公園の時計を見たら9時30分だった。あなたはそれまで毎日その時計を利用しており、それが信頼できる時刻であると信じることができた。しかし、時計は一日前に止まっていたとしてみよう。それをあなたは知らない。信頼できる時刻9時30分をあなたは信じることができるが、それが正しい時刻であることを知らない。

(太郎の例)太郎はこれまで部屋の左のドア近くにあるスイッチで、電燈をつけていた。しかし、今日はそのスイッチが壊れている。太郎はそれを知らず、いつものようにスイッチを入れた。ちょうどその時、右のドア近くのスイッチを弟の次郎が入れたために電燈がついた。太郎の信念は正しいが、それは事実と異なっている。

(問)ゲチアの反例、上の2例から、「信じる」ことと「知る」ことがどのような関係になっているか述べなさい。信じることができても知ることができない場合を考えなさい。

 上の例に共通する点は、いずれの主人公も信じている命題について信頼できる証拠をもっているが、それが誤り得ないという保証はもっていないということである。ここから導かれるのは懐疑論(Skepticism)である。では、どのような条件が満たされれば、あることを「知っている」、つまり、あることの知識をもつと言えるのだろうか。ゲチアの反例に対する対応にはさまざまなものがある。いきなり現代の対応を考える前に、知識を私たちはどのように捉えてきたのか知っておかなければならない。懐疑論は知識に対する懐疑であり、知識の存在を脅かしてきた。知識への懐疑とはどのようなことか考えてみよう。