「第一義」と「義」

 「第一義」の常識的な意味は、根本的な意義や価値で、「政治の第一義」、「第一義的な問題」などと使われます。上杉謙信が扁額に書いた「第一義」は仏教用語で「最高の道理、究極の真理、基本公理」を指す用語。一方、「義」は儒教の主要な概念であり、五常(仁・義・礼・智・信)の一つ。義は正しい行いを守ることであり、人間の欲を追求する「利」と対立する概念です。
 私はかつて自分が学んだ高校の校是「第一義」について書いたことがあります。上杉謙信の「第一義」が校是になっていたのですが、校是として不適切であるにもかかわらず、謙信の権威によって深遠なる意味があるかのように考えられてきたと述べました。第一義が(仏教の)根本的な原理という意味ならば、それが校是になることは考えられず、第一義が最も大切な意義ならば、曖昧だが校是にならないことはない、といった主張で、そうなると謙信の権威はどこにもないことになってしまいます。
 「義」という言葉は古代中国から使われてきました。孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と述べ、人に道として当然しなければならないことを知りながら、それを実行しないのは勇気がないと諭しました。孟子も「仁は人の心、義は人の道」と説いています。江戸時代になって武士道が確立され、「義」が武士の行動規範にされると、「義」の定義があちこちに登場します。林子平は義を「道理に従い、ためらわずに決断する力。死すべきときに死し、討つべきときに討つ」と説明しています。
 さて、「謙信は生前からその義理堅さが有名だったが、上杉家もこの謙信の義の心を積極的に継承していく」という文に登場する「義理」と「義」は果たして同じことなのでしょうか。こんな意地悪な問いを出されると、大抵は答えに窮してしまうのです。
 「義の人」とはスマートな表現なのですが、この「義」とは何を意味しているのでしょうか。とても多義的で、正しく使うのに気を使わなければならない言葉です。儒学にまで遡っての「義」は、歌舞伎の「義理」ではありません。でも、多くの日本人が「義」によって共感した生き様となると、高倉健の「義理人情」でした。あるいは、忠臣蔵の「忠義」、そして、『虞美人草』の「道義」でした。時代と共に「義」はその意味を変えてきたのです。
 こうなると「義の人」の「義」が何を指すかはパンフレットの説明を余程しっかり読み返さないと定かではなくなります。「義の人」が「第一義」という扁額を林泉寺山門に残したとしても、両方に登場する「義」は漢字が同じという程度のものでしかありません。文脈が定まらないと何を指すかが決まらない「第一義」と、行動規範、倫理としての「義」は似て非なるものなのです。こうして、「第一義」も「義の人」も堪えられない程の多義的概念ということになります。にもかかわらず、人々はそんな概念を表に出して郷土の偉人を讃えるため、偉人を無知の坩堝に投げ込み、時には辱めることにさえなるという危険といつも隣り合わせなのです。
 同床異夢の対象にまつり上げられる英雄は、それゆえに一層魅力的な人物として私たちの前に再登場することになるならば、それはそれで成功なのでしょう。