「正の善に対する優越(the priority of the right over the good)」への寸評

 タイトルのような表現「AのBに対する優越」は、Aの方がBより優れている、勝っている、優先される等々、様々に解釈されますが、いずれの場合もAとBとを直接比較し、優劣をつけるという仕方が想定されています。善と正義のいずれが優先されるべきかと問われると、二つの間に優劣をつけたくなります。でも、本当にそんな話なのか、それを再考してみましょう。
 人はそれぞれ善き生活について自分なりの意見や希望を持っています。これを最近はconception of the good(善の構想)、 あるいはconception of the good lifeなどと呼んでいます。簡単に言えば、各人の人生設計のことです。仏門に入り、冥想して生きていこうとか、ビジネスの世界で身を立てようとか、安全で安心できる人生を歩むために公務員になろうとか、各人にとっての善いことの実現がそれぞれの人生設計となり、その実現が人生の目的となります。
 自由主義社会においては、善の構想が複数あっても構わないという「善の多元性」を認め、 国が「これが最高の善の構想です。これを目指して生きなさい。」というような強制、押しつけをしてはならないと考えられています。つまり、社会の誰もが、他人の自由を侵害しない限り、自分の善の構想を自由に追求することが許されているのです。
 このような状態、つまり、社会の制度が、唯一の善の構想に従って作られているのではなく、各人が公正な社会の中で自由に自分の考えに従って人生を設計し、その実現を追求という状態が、「正の善に対する優越」と呼ばれます。つまり、社会的正義は、特定の善の構想に依存しないということです。つまり、「多様な善を公平に認める」という正義が個々の善に優先するということになります。
 マイケル・サンデルは、「正の善に対する優越」には二つの意味があると説明しています。一つは、個人の権利は社会一般の善のために犠牲にされてはならないという意味。もう一つは、上述のように、これらの権利を規定する正義の原理は、いかなる特定の善き生の考え方をも前提しない、という意味です。
 ところで、「正の善に対する優越」という発想はカント的であり、それゆえ功利主義的ではない、というように考えられていますが、この考え方は正しくありません。ベンサムやミルは、 幸福を唯一の善としましたが、 彼らは「幸福が唯一の善だ」と主張することによって、ある特定の善の構想を強要しているわけではないのです。むしろ彼らは、何に幸福を見いだすかは各人の自由であり、人々は他人に危害を加えない限り、それぞれの幸福(善の構想)を追求できることが社会のあるべき姿だと考えていました。ですから、最大多数の最大幸福が社会制度を決める原理であることには間違いないのですが、「功利主義では、ある特定の善の構想によって社会制度が決まる」と言ってしまうと、それは正しくないことになります。
 善は各人が自由に構想できるのですが、正義はどうでしょうか。各人が勝手に自分の正義をもつなら、異なる正義が存在し、それらが衝突することがしばしば起こることになります。そうなると、社会の秩序が保てず、不安定になります。このようなことがいずれが優越するかの理由になっているようです。
  結局、善は各人に相対化できるのですが、正義はそれができないのです。そして、そのことが「正の善に対する優越」の実際上の意味なのです。