ゼノンのパラドクス:子供の立場と大人の立場

 ゼノンのパラドクスは頓智のようなものだと真剣に受け取られることが少ないのですが、世界の中の変化をどのように理解し、表現するかという基本的で目立たない土台についての問題を明らかにしてくれたという点で、第一級の重大な頓智なのです。ギリシャから中世までの考えは現在なら小学生レベルの健全な思考に対応していて、科学革命以降の考えが中学生以上の人たちの常識に対応していると考えることができそうです。これはまた、小学生から中学生への数に関する知的成長が数に関する歴史的な経緯に対応していると解釈することもできます。
 ゼノン(Zenon, 490 BC頃-425 BC頃)はギリシャの哲学者で、帰謬法を使った推論で大変有名です。彼の推論の目的は師であるパルメニデス(Parmenides, 510BC頃生)の主張を擁護することにありました。パルメニデスは実在を一つで、不変不動のものと考え、それゆえ、運動、変化、複数性などはすべて錯覚に過ぎないと主張しました。ヘラクレイトスと違って、変化を一切否定するパルメニデスの主張は多くの批判を浴びましたが、ゼノンは師の主張を擁護するために、運動や変化が存在するとすれば、矛盾に陥るという帰謬法を使った推論を幾つもつくってみせたのです。ゼノンの論証は4種類伝えられています。ここではそのうちのアキレスとカメの競走を考えてみましょう。
[アキレスとカメの競走:子供の立場]
 アキレスとカメが100m競走をするとします。アキレスは1秒に10m走り、カメは1秒に1m走るとしましょう。これでは明らかにアキレスが勝つので、ハンディキャップレースにします。カメはスタートラインから10m先のところから90m走ることにします。二人が同時にスタートするとするなら、スタートでは10mの差があります。1秒経つと、アキレスはスタートラインから10mのところまで達します。カメは1m進むので、スタートラインからは11mのところまで達します。したがって、1秒後の二人の差は1mです。次に0.1秒後を考えましょう。アキレスは1m進むので、1.1秒後の進んだ距離は11mとなります。一方のカメは0.1m進むので、その進んだ距離は11.1mとなります。まだ、カメの方がアキレスより先にいます。次に考えるのは0.01秒後です。同じような計算から、アキレスは11.1m、カメは11.11mとなります。まだ、カメの方が先にいます。次は0.001秒後です。このように前の1/10の時間間隔でアキレスとカメの進んだ距離を計算していきます。さて、こうしてできあがるアキレスとカメの距離の系列において、いつアキレスはカメを追い抜くことができるのでしょうか。この問題に対して、常識はアキレスがカメを簡単に追い越すことを主張しているのですが、系列はいつまで経ってもアキレスの進んだ距離はカメの進んだ距離を超えることができません。したがって、これはパラドクスです。
 ゼノンのパラドクスを構成的(constructive)に考える場合と非構成的に考える場合とに分けてみましょう。非構成的な解決の仕方は反事実的な状況を仮に設定してみること、あるいは帰謬法を用いてその問題を扱うことです。あるいは、アキレスが既にa秒走ったとすればどうなるかを尋ねてみることです。また、アキレスがa秒後にまだカメを追い越していなかったと仮定して議論を進めてみることです。このような対処の仕方は簡単にアキレスがカメを追い越していることを証明します。例えば、4秒後にアキレスがまだカメを追い越していないと仮定してみましょう。アキレスは既に40m走っています。一方、カメは14mに過ぎません。したがって、この仮定は矛盾しています。それゆえ、4秒後にはアキレスは既にカメを追い越していなければならないのです。
[数列の収束:大人の立場]
 一方、構成的な考え方はスタートから実際に変化する状態に合わせて一歩一歩議論を進める方法です。この方法は反事実的な仮定や帰謬法を用いず、アキレスとカメの走りを再現していくという意味で数学の構成主義的な議論の進め方と同じです。このような議論の進め方のすべてについてアキレスがカメを追い越せないというのではありません。実際、二人の走りの追跡方法を少し緩和し、1秒毎にアキレスとカメの走りをモニターしたとしてみましょう。2秒後にはアキレスはカメを追い越してしまっています。問題はどのような仕方で二人の走りを追跡しても同じように追い越しの確認ができるかどうかです。上述のように時間間隔を1/10にしていく仕方ではそれが確認できないところに問題が生じるのです。なぜ確認できないかは無限個の位置や時間間隔の存在に由来しています。無限の級数の和をゼノンは計算できなかったし、それが計算できるのは19世紀のコーシー(Augustin L. Cauchy, 1789-1857)まで待たなければなりませんでした。そこで、コーシーの考えに基づいてアキレスとカメのパラドクスを考えてみましょう。
 まず、無限の数列 {Sn} がLに収束する、あるいは極限(limit)Lをもつとは、任意のε> 0について、ある正の整数Nが存在して、どのようなn > Nについても、|Sn – L| <εとなることです。これが「数列の定義」です。例えば、

1/10, 1/102, 1/103, 1/104,……

という数列の極限は0です。数列の極限という概念が定義されると、それを「無限級数の和」を定義するのに使うことができます。無限の級数s1 + s2 + s3 +…+ sn +…の和を定義するために、次のような部分和を考えます。
 S1 = s1
S2 = s1 + s2
………
Sn = s1 + s2 +…+ sn
各Siは有限で通常の加算ができるので、問題はありません。各Siが有限でないと、無限の和となり、それは和の定義上ありえません。それで、まず有限の和の数列を考え、その数列の極限をとると、それが無限の和にあたることになる、という工夫が行われたのです。この工夫が極限操作で、コーシーが考えたものです。それまでは、ニュートンライプニッツ、そしてオイラーも「無限小(infinitesimal)」概念を使って解析的な計算をしていました。既に無限の数列の極限を定義してあるので、数列 {Si} についてそれが極限をもつなら、上の級数は収束することになります。この結果を容易にアキレスとカメの場合に適用し、収束の時点でアキレスがカメに追いつけることが示されます。
 子供のレベルではアキレスはいつまでたってもカメに追いつけないのに、大人になるとアキレスはカメに追いつくことになります。このように書くと、わかったような気持になるのですが、本当にわかったと納得したかどうか今一度考えてほしいものです。数列、級数、無限、極限、収束といった単語が使われて何が正確に主張されているのか、丁寧に見直してみる必要がありそうです。それら概念は実数に対して定義されていて、子供の立場では存在しないものです。