神の存在証明

 「神の存在証明」という謂い回しはその実像を覆い隠すに十分で、その呼び名の正しい表現は「神の存在仮説」の説明だというのが私の考えです。経験主義的な立場からは、実在することが証明できない存在は仮説に過ぎません。これまでの神の存在証明と呼ばれる試みは、神が原子のように実在することの経験的な証明ではなく、理屈の上で存在するという、いわば仮説に過ぎないのです。原子の存在は実証されず、長い間仮説に留まってきました。その実在証明は20世紀に入ってからでした。原子はペロンによって存在証明がなされたのですが、神は原子のようにその存在が実証されたのではなく、推論されたに過ぎないという意味で仮説なのです。むろん、仮説だからと謂って、いい加減であやふやなものという訳ではありません。自然神学の今様の言葉遣いに合わせるならば、自然神学での神の存在証明は実験や観察の結果がない証明であり、それゆえ仮説なのです。でも、当然ながら啓示神学は神が実在することを前提にしていますし、信者は誰も神を信じて疑いません。
 では、実験や観察のない神の存在証明とはどのような証明なのでしょうか。今では理屈を駆使して神の存在(あるいは非存在)を証明しようとする人はごく僅かです。昨日述べたように、存在とそれを知ることが独立しているなら、知ることは実証レベルの話であり、存在の証明とは関係がないと考えられていて、かつては神の存在証明は多くの人々の関心の的だったのです。実際、様々な証明が行われ、それらは分類され、まとめられてきました。中でも有名なのがカントの要約であり、遡ればトマス・アクィナスのまとめがあります。そこで、偉大な思索家二人が神の存在証明をどのように捉え、説明したかまとめてみましょう。
<カント>
 目的論的証明(自然神学的証明)は、世界が規則的で、精巧なのは、神が世界を作ったからだと主張します。本体論的証明(存在論的証明)では、「存在する」という属性を最大限に持ったものが神ですから、神は文句なく存在します。宇宙論的証明によれば、因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと第一原因に到達し、この第一原因が神なのです。道徳論的証明によれば、「道徳に従うと幸福になる」と考えるには神の存在が必要なのです。
 最初の三つは、カントが『純粋理性批判』の第三章「純粋理性の理想」において中世以来の神の存在証明をその論駁のために独自にまとめたものです。四種類の存在証明は、基本的なパターン分類であり、これらのパターンの一部が使用されたり、また複合形で論証が行われたりする場合もあります。四つの証明に共通するのは、いずれも実験や観察の結果ではなく、推論に基づく結論として述べられていることです。推論のもつ前提は実証的なものではありませんから、結論である神の存在も実証的なものではありません。つまり、神の存在は証明されても、仮定のままなのです。
 例えば、スピノザは「神=自然」だとしたのですが、自然の存在は自明であり、そうだとすれば神の存在も自明となります。これに対し、精神(思惟実体)と物質(延長実体)の実体二元論を提示したデカルトの思想では、精神と物体が調和している根拠が不明であるにもかかわらず、現に精神と物体の調和性が存在するのは、両者の仲介者としての神が存在するからなのです。
 次のものはニュートンの逸話として語られている神の存在証明です。この遣り取りに触れた最も古い資料は1800年代初めのもので、それによればニュートンではなく、ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーの逸話とされています。 彼は教会の御用学者として、実に多くの著作をなしています。上手な機械工に作らせた太陽系模型は、惑星を表す球体が実物そっくりに連動しながら軌道上を回るように作られていました。ある日、彼を訪ねた無神論者の友人は模型を見て、それを操作し,その動きの見事さに感嘆の声を上げ、誰が作ったか尋ねました。無神論者の友人は、「誰かが作ったのに違いないが、その人は天才だ。」と褒めたたえました。キルヒャーはその友人に「私はこの玩具が設計者や製作者なしに存在することを君に納得させることができない。それなのに、君はこの模型の原型である偉大な体系が設計者も製作者もなしに存在するようになったと信じている」と言い、以後その友人は神の存在を認めるようになったとのことです。これは世界の設計者、デザイナーとしての神であり、ペイリーの『自然神学』で展開されるデザイン論証の主張なのです。
トマス・アクィナス
 トマス・アクィナスは、『神学大全』の第1部第2問題第3項において、「神は存在するか」と問います。この問いに対し、トマス・アクィナスは、まず、「神は存在しない」という主張について吟味することから「神の存在証明」を始めます。

もし対立するものの一方が無限であるとすれば、もう一方のものは完全に追いやられる はずだ。それゆえ、無限の善であるはずの神が存在するならば、この世の悪は追いやられるはずだ。しかし、この世には悪が見出される。したがって、神は存在しない。

 自然のものであれば自然の本性に遡って説明することができます。また、計画や自由裁量に基づくものは、人間の理性や意志に遡って説明することができます。ですから、神が存在すると考える必要はありません。このような吟味をした上で、トマス・アクィナスは、聖書の『出エジプト記』の中の「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3章14節)という神自身の言葉を挙げます。神は存在しないのか、それとも、神は存在するのか。トマス・アクィナスは、上記二つの反論への「答え」を導くにあたって、まず、アリストテレスの哲学を援用しながら、神が「存在」することを下記の五つの方法によって理性的に「証明」したのです。

(1)運動変化による証明
 運動変化が世界にはあります。運動変化するものは、すべて他のものによって動かされています。そして、その運動の原因となるものも、何か他のものによって動かされています。このように運動変化の原因を遡っていけば、最終的には、他のものによって動かされたのではない、最初に動かしたものがなければならないことになります。それが、神です。
(2)始動因による証明
 始動因とは「ものの変化または静止を起こす原因」のことですが、あるものが自分自身の始動因になることはありえません。なぜなら、自分自身がみずからの始動因であるならば、自分が自分自身に先立って存在しなければならなくなるからです。一方、始動因はすべて順序立っていて、最初の始動因が、複数ある中間の始動因の原因であり、中間の始動因が最後の始動因の原因です。つまり、始動因には必ず「最初の始動因」が存在するのであり、それが神です。
(3)可能性(偶発性)と必然性による証明
 事物のなかには「存在することも存在しないことも可能なもの」、つまり偶然に存在するものがありますが、そうした偶然的なものが存在するには原因があります。この原因を遡っていくと、存在することが必然であるものの存在を認めなければなりません。そうした存在は、存在することが必然だから存在しているのであり、必然性の原因は他によるものではなく、自分自身の内にしかありません。そうした存在が神なのです。
(4)段階と完全性による証明
 大理石でつくられた二つの彫像があれば、どちらか一方の彫像の方がもう一方の彫像よりも美しいと判断できます。このような判断が可能なのは、美や知恵など、あらゆるものの質の段階を判断するための規準があるからであり、そうした規準は最高の完全性を持っていなければなりません。そして、そうした最高の完全性をもつのが神です。
(5)世界秩序の存在による証明
 物体には知性がありませんが、その物体はなんらかの目的へ向かって動いているように見えます。目的へ向かうのは、そこになんらかの意図が働いているからです。矢が射手によって的へ向かって放たれるときのことを考えればわかるように、知性を持たない物体は、認識と知性を備えたなんらかの存在によって方向を与えられなければ、目的へ向かうことができません。それゆえ、すべての自然物を目的へと向かわせる、知性を備えた何かが存在していることになりますが、それが神です。

 トマス・アクィナスはこれら五つの「証明」をした上で、上記二つの反論に答えます。

「この世には悪が見出されるから神は存在しない」という反論への答え
 アウグスティヌスは「神は最高度に善であるから、もしも神が悪からでさえも善を造り出すほどに全能かつ善でなかったならば、いかなるものであろうと、なんらかの悪がみずからの業のうちに存在することを許さなかったであろう」 と述べています。したがって、悪が存在することを許し、悪から善を引き出すことは、 神の無限の善性に属しています。

「あらゆるものは神にまで原因を求めなくても説明できるから神が存在する必要はない」という反論への答え
 目的へ向けて自然が働くのは、なんらかの上位の作用者によって方向づけられたものですから、自然によって生じるものが第一原因である神に還元されることは必然です。同じように、計画や自由裁量によって生じるものも、人間の理性や意志ではない、より高い原因に還元されなければなりません。なぜなら、人間の理性や意志は不完全であり、それ自身によって必然的であるなんらかの第一原因にまで還元されなければならないからです。

 でも、トマス・アクィナスの哲学にとって神は存在することが証明できても、神が何であるかを知る(つまり、その本質を明らかにする)ことはできない存在でした。これが自然神学の限界だったのだと考えることもできます。これはカントでも同様です。「神が存在する」ことと「神の存在を知る」こととは違うのです。キリスト者の信仰にとって重要なのは神の存在ではなく、それを知ることだと言われるのですが、神の存在とそれを知ることの間にある違いとは一体何なのでしょうか。
 信者でない私にはわからないことだということになるのですが、自然神学での神の存在と啓示神学での神の存在の違いは神の存在とその存在を知ることの違いなのではないかというのが私の予想です。そして、その違いは原子の存在仮説と原子の存在の実証の違いだと考えてよいのではないかと言うのが私の向こう見ずな主張です。