頭の体操:無知の知か、知ったかぶりか?

 年配の多くの人が下村湖人次郎物語』第三部に登場する「無計画の計画」という言葉を憶えておられるのではないでしょうか。さらに、それに禅問答やら哲学的な響きやらを感じたのは、遥か昔の「無知の知」を真似た表現だからと後で気づくことになったからではないでしょうか。その「無知の知」を考え直すことから、「知ったかぶり」こそが知識の本質であるという非常識な議論を以下に展開しましょう。そこからが私のあなたへの挑戦です。私の議論に反論できなければ、あなたの負けで、その結論を認めなければなりません。それが議論し、納得して理解することであり、ヨーロッパ哲学の伝統なのです。

 プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、「だれもソクラテスより知恵あるものはいない」というアポロンの神託は、はじめはソクラテスにとって「謎」であった。彼は「自分が知恵ある者だなどということには全く身に覚えがない」という「無知の自覚」と「神が嘘を言うはずはない」という「神の信仰」との間にはさまれて、アポリアに陥ったからである。そこで、神の神託が誤りであることを示そうと、世間で知恵ある者だと思われている三者-政治家、詩人、手職人-のもとを訪れた。そこで彼が見出したのは、それぞれ「自分が知恵ある者だと思っているが、実はそうではない」ということと、彼自身は、例えば善や美などということを「実際に知らないので、彼らのように知っているとも思っていない」ということであり、この無知の自覚の点で自分の方が彼らより「ほんの少しばかり」知恵があるということだった。こうして神託の謎は解け、それが反駁できない真理であると悟った。しかし、ソクラテスは、彼を知恵ある者だとする世間の人々の偏見を前にして,神のみが知恵ある者だと主張する一方、この神託を「人間たちよ,お前たちの中では、ソクラテスのように自分は知恵については全く価値のない者だと自覚している者が最も知恵ある者なのだ」と一般化して解釈したのである。
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 知ったかぶりをするのが人間の常であるが、知ったかぶりが知識の悪用を諌めるための反面教師の例であることもよく知られている。誰も知ったかぶりを褒め言葉としては使わない。それが『ソクラテスの弁明』に明確に述べられている。しかし、知ったかぶりをすることこそが知識の本性であり、それがなければ人間が知識を使うことができないという点に、忘れられてきた知識の謎が潜んでいる。そこで知ったかぶりこそ知識の本性だという主張を考えてみよう。
 「無知の知」はソクラテスの名言として有名である。ソクラテスが他の人より優れていると言えるのは「自分が何も知らないことを知っている」という点にある、というのがその解釈で、成程と多くの人々を唸らせてきた。だが、「知らないことを知っている」ということは形容矛盾の匂いがしないだろうか。あることを全く知らないなら、それを知っているとか知らないとか、といったことはそもそも話題にもならない。表面的な理解、聞きかじり、部分的、一面的な知識をあたかもすべて知っているかのように(他人に対して)振舞うこと、つまり、知ったかぶりをすることを諌めたものと考えるのが自然で、無難な解釈となっている。
 誰も生活に必要なものすべてを自らの手でつくらない。知識も同じで、すべて自前の知識でないと使えないとなったら不便この上ない。次の例を考えれば、私たちだけでなくソクラテスさえ他人がつくった知識に頼っていることが納得できるだろう。「AがBである」ことがどのようなことなのか、どのような意味なのかを知らなくても、それを使って「BがCである」ことと組み合わせて、「AがCである」ことを導き出すことができるし、それだけでなくその結果を様々な活動に使うことができる。誰も論理の規則をすべて知らなくてもこの推論は正しいものと受け入れ、活用するだろう。
 知らないことがあるのは恥だろうか、それとも誇りだろうか。知らないことを誇るのが「無知の知」の通常の解釈である。だが、「知らぬが仏」が成り立つ状況では、ソクラテスはどのように言うだろうか。また、「地震の予知は2割程度しかできない」という状況で、ソクラテスの考えを聞いてみたい。私たち現代人はソクラテスと違って、知らないことがあると心理的に不安になる場合が多い。「無知の知」と言うだけでいったい何か役立つようなことが導き出せるのか。知りたい好奇心や知らなければならない義務や責任があるとき、ソクラテスの格言は何かを教えてくれるのだろうか。
 「経験的な知識に完全なものはない」という主張は無知の知を具体的に表現した例文である。経験世界には私たちの知らないことがたくさんあり、そのことを知るのが上の主張である。だが、実際には眼前の対象についてまず知ったことを確認する。知識が完全でなければ使うことができないなどと考える人はいないだろう。不完全な知識と経験的に知った事柄を組み合わせ、それによって知ったことから既知の知識ネットワークに乗せて発展させるのがプラグマティックな知識の使用である。知ったかぶりしなければ知識を使いこなすことはできない。
 「知るとは何か」という問いに答えるために必要なのは「知の知」であって「無知の知」ではない。知らないことを知ることが哲学的な洞察の結果などと考えるべきではない。知らないことは間髪入れずにわかることであり、心が確信できるほとんど唯一のものと言っても言い過ぎではない。私たちは直感的に「わからない」とわかるのである。
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 さて、これまでの知識についてのまるで正反対の主張を読み比べ、私の生意気な議論に反論を試みて下さい。その際、情報、知識、知恵といった言葉がそれぞれ何を指しているかも気にしながら、考えてみて下さい。