神々と人々の絆(8):「神の国」と「神国」

 アウグスティヌストマス・アクィナスと並んで、中世最大の教父と言われているのですが、若い時分は恋愛三昧の生活だったようです。でも、勉強はしっかりしていて、16歳にカルタゴに行き、そこで学んだようで、哲学やマニ教に没頭していました。そして、最終的にキリスト教に回心し、多くの著作をなしたのです。そんな彼が自らの人生を書いたのが『告白』、そして自分の考えたことをまとめたのが『神の国』でした。
 キリスト教の時代が始まり、アウグスティヌスが活躍するのは300年代です。キリスト教が誕生してからは、キリスト教が哲学や倫理も支配するようになりました。313年のミラノ勅令で、強大なローマ帝国キリスト教が公認され、4世紀末にはキリスト教が国教となります。でも、宗教はどこか哲学と似ているところがあり、キリスト教の考え方について違いが生まれてきました。そこで、ニケーア公会議が開かれ、どの宗派が正統なのかという議論がされ、アリウス派は異端となりました。さらに、グノーシス主義のような、様々に異なる信条も登場し、「神は存在できない、それゆえ、私は信じる」などといった主張も生まれ、争いが起こり出します。このように、当時は様々な教義が生まれ、キリスト教の中での正しい教義とは何かが問題になり出した時代だったのです。アウグスティヌスが生きた時代は、キリスト教内部において整合的な教義がまだ存在せず、諸説入り乱れていたのです。キリスト教側も手をこまねいて傍観していた訳ではなく、「教父」を設置しました。教父は弁護士みたいなもので、キリスト教が正当で、正統な宗教であることを証明し、説明する役割を担っていました。アウグスティヌスは、その中で最大の教父、つまり、キリスト教を体系化した人なのです。
 アウグスティヌスはまず「神の存在」を考えます。神が存在することを証明することは本当に難しい問題です(同じように神が存在しないことの証明も厄介なのですが、それはグノーシス派が問いかけた問題)。彼は「神は存在する。君たちはなぜ「神」という概念を知っているのか。本物の神を見たことがないのに、神という存在を知っているではないか。それは神を認識しているということではないのか」と述べます。これはプラトンイデア論での主張と同じ議論です。「本物の善というものをみんなは知らないはずなのに、それを普通に会話に使って、それで互いに認識を共有している。だから、それは善が存在するということではないのか」という議論そのままです。
 「知る=存在する」という図式について少し述べておきましょう。当時はまだ認識論的に概念がどのように生み出されるかが問題になっていませんでした。例えば、善や真といったものは人間が勝手に作り出した概念ではなく、実在するものであり、人間がそれを見つける、気づくと考えていました(存在論)。ですから、人間が知っている概念は存在しているものだったのです。 そこで、神が存在するとします。すると、次のような反論ができます。神が完全なら、どうして悪の性質を持つ人がいるのか。それは神が完全な存在ではないからではないのか。この問いに対するアウグスティヌスの答えが「自由意志」。アウグスティヌスは次のように答えます。神は人に自由意志を与えた。私たちが善をなすのか、悪をなすのか、それは私たちの自由な意志による。神は人が自分の意志に基づいて、善をなすことを期待している。
 アウグスティヌスは尺度を作りました。イデア論に対して、「汚物」は、「醜い」のイデアがあるからなのか、それとも「美しい」のイデアがないだけなのか、どちらなのかという批判がありました。アウグスティヌスは次のように解釈します。世の中には尺度のイデアがたくさんあるに過ぎない。醜いイデアというのは存在しない。醜いとは単に美しいイデアがないだけなのだ。そしてそのイデアが強くなれば強くなるほど、それはより美しくなる。つまり、イデアを単に「あるか、ないか」の二者択一で考えるのではなく、度合いで捉えるようにしたのです。すると、善悪について次のように主張できることになります。この世に悪は存在しない。悪は単に善が欠けている状態に過ぎない。神が万能であれば、この世界に「悪」があってはならないという主張に対し、アウグスティヌスによれば、「悪」は単に善を成し得なかったがために生まれたものという説明になるのです。
 こうして、アウグスティヌスによれば、神は永遠の知性を持った存在であり、真理は神であり、悪とは善(真理)が欠如した状態で、神への信仰によって満たされるとき、消滅するということになります。さらに、これを「時間」にも適用すれば、時間は個人の心の中のもので、神による救済という目的に向かって流れるとき、「最後の審判」の日に満たされるとなる。また、「神」は「言葉を出す父」であり、「キリスト」はその「言葉」であり、「聖霊」は「言葉によって伝えられる愛」と捉えたのがアウグスティヌスの「三位一体説」。そして、この世界はイエスが唱えた「愛の共同体」としての「神の国」と、「世俗世界」である「地の国」の二つの世界からなるが、「神の国」は純粋に精神的な世界なので目で見ることはできない。「神の国」が絶対的で永遠なるが故に歴史的に超越しているのに対し、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的(限定的)で非本質的なものに過ぎない。また「地の国」にある教会にも世俗の要素が混入しているが、「地の国」において唯一信仰を代表し、現実世界に共通善を実現するための神の摂理が存在する場であるため、国家に対する優位性を持っているとアウグスティヌスは考えました。

 「神国」という言葉が最初に現れるのは『日本書紀』の神功皇后の「三韓征伐」の際、新羅王が皇后の軍勢を見て、神国の兵に戦わずに降伏したという記載です。大和政権は、本来、各々の有力豪族の連合政権でした。各々の豪族は、独自の神話をもち、独自の神を祭っていました。ところが、大和政権が大化の改新を通じて天皇中心の中央集権国家へと移行すると、天皇家の神格化を図るために、天皇家の祖先神である天照大神天皇家の神社である伊勢神宮を頂点とした、神々及び神社のヒエラルキーが確立し、これを基本にしたのが古代の神国思想です。
 10世紀以降、律令体制から王朝国家体制に移行すると、貴族や寺社が荘園を拡大し始めます。有力な寺社は、自分たちが祭る神々を日本の神の中の頂点であることを宣言し、不輸・不入の権を行使し、自分たちの荘園を「神領」や「仏領」としました。その結果、天皇家を中心とした神々と神社の組織は衰退していきます。また、平安時代前期から神仏習合思想が普及し、仏が日本の国土において、人々を救うために神々の姿をとった、という本地垂迹説が説かれました。このような社会・思想の変動によって、天皇の権威を頂点にした神国思想は、本地垂迹説を基にした中世的神国思想へと移行・変化していきます。
 平安時代末期より鎌倉時代にかけて末法思想や鎌倉新仏教の広がりによって現世を否定する思想が広がり、貴族社会を中心に皇室とそれを支える貴族社会の由来を神国思想に求める考え方が出現しました。さらに、これに一大変革を与えた事件が二度にわたる元寇です。いずれも後世「神風」によって撃退されたと解釈されますが、この嵐が伊勢神宮をはじめとする諸神社によって盛んに喧伝され、実際に戦闘を行った武士たちが元軍の集団戦法に苦戦して神への加護を求めていたという事実と共に、日本を神国とする認識を国内各層に浸透させることになりました。
 このため、浄土思想・鎌倉新仏教側もこれを取り入れて、日本の仏教は神々の加護によって初めて成立していて、末法の世を救う教えも日本が神国であるからこそ成立したという主張に転換していきます。これを「大日本は神国である」という言明で言い切ったのが『神皇正統記』の北畠親房です。親房は天照大神の末裔の天皇によって日本国家が維持されていると主張したのです。
 江戸時代には儒教や仏教などの外来思想に批判的な立場から古典や神道を研究する国学が盛んになり、復古神道が主張されると、従来の神仏習合的な神国思想から仏教・儒教的要素を廃し、古代へ回帰した神国思想が広く受け入れられるようになりました。でも、それが幕末の外的圧力の増大とともに攘夷論へと発展し、やがて江戸幕府を亡ぼす原因となりました。明治維新により天皇が政権を奪還すると、国家神道が国教とされ、国家神道を支える理念的思想となるとともに、欧化・近代化路線に対抗する国粋主義と結びつきました。日本の帝国主義軍国主義路線の膨張、植民地の拡大とともに、国内外の民衆を抑圧する思想へと転化して行ったのです。日露戦争勝利以後、日中戦争・太平洋戦争でその動きは最高潮に達し、「神州不滅」思想が横行し、多くの生命が失われました。
 「神国」の通常の使い方によれば、日本を神の国と考えることです。これには、神々の加護の下にある国という意味と、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神孫である天皇の統治する国という意味があります。イザナギイザナミの二神による国土の生成、日神天照大神をはじめとする神々の生誕、日神の神孫による日本の支配を骨子とする『日本書記』と『古事記』の神話のなかにその芽を見出せるのですが、古代には「神国」ということばはあまり用いられませんでした。「神国」という思想が歴史の表面に登場してくるのは中世以降のことです。それは、何より蒙古襲来という国家的危機が民族意識を覚醒させたことによるのです。
 近世に入ると、神国思想は儒教思想と結びつき、国粋主義思想を生み出します。その一方で、新たに登場した国学思想によって活性化され、幕末維新期の尊王攘夷運動に精神的基盤を提供しました。これらの神国思想では、単に統治者たる天皇のみならず臣民自体も神々の後裔であるとの考え方が強調されます。こうして神国思想は民俗としての祖先崇拝と結びつき、明治以後の敬神崇祖、忠孝一致という家制国家を支える道徳思想として生き続けます。

 「神の国」と「神国」は似て非なる概念ですが、そこに一神教多神教の違いの実例を見ることができます。神が絶対で唯一の神であることは、神が政治や経済から超越、独立したものであることを強調するのですが、神々が人と交わるような状況では、神々は政治や経済に強くコミットすることになります。人々の運命を左右するのはいずれの神も同じなのですが、その具体的方法は随分と異なることがわかります。ただ、直接に私たちの生活にコミットする際の神の力は、一神教であれ多神教であれ、自然を超える力によることはよく似ています。奇跡が私たちに及ぼす効果や結果は、いずれの神であっても変わりありません。