神々と人々の絆(5):神仏習合

 朝鮮から日本に「仏教」が伝来すると、日本固有の神々と仏たちとは融合しました。在来の種と外来の種が交雑するかのように習合しました。それが「神仏習合」と呼ばれるものです。この「仏教」と「神道」の習合は、私たち日本人の神や仏の観念を知る上で不可欠のものです。
 神道に対して仏教が単に外来種のように移入されたのではなく、朝廷や貴族の守護神として移入されたという点に大きな特徴があります。後のキリスト教伝来の場合とは違って、仏教は神道の一部として移入され、「仏」は神の一人とみられていたのです。神道は現世利益的な「繁栄、守護」を目的としていて、仏教もそれと同じ目的で受容されたのです。
 釈迦の原始仏教は自ら「悟りを開く」のが目的ですが、大乗仏教になって「仏が人々を救う」という宗教に変わり、その「救済の力」が、現世利益の場合は「守護力」に求められました。庶民にとっては「病気や災厄からの守り」であり、朝廷や貴族にとっては「護国、鎮守」です。ですから、朝廷、貴族は仏教を保護し、仏教も「勢力拡大」のため朝廷、貴族と結びついていきました。
 ギリシャやエジプトの神々は対立していませんし、ローマの神々はギリシャの神々と融合しました。神々の働きが同じであり、それゆえ、融合しても矛盾はなかったのです。日本が仏たちと神道の神々とを融合させたのも同じです。そして、仏教の方も「神道とは異なり、釈迦が説く出家して修行によって悟りを得る」ことが目的だと強弁せず、「護国、守護」の目的は神道と同じだと主張し、それゆえ簡単に受容されたのです。確かに、本来の仏教は悟りを開くことが目的で、個人の魂の救済を目的にしていました。でも、これだけを最初から主張すると、仏教と神道は両立しなくなってしまいます。
 仏教の「公式な伝来」は欽明天皇の時代で『日本書紀』では552年ですが、一般的には538年となっています。仏教の送り手は「百済聖明王」です。『日本書紀』によれば、欽明天皇は使者に対して「自分はいまだかつてこんな深遠な教えを聞いたことがない」と言いながら、臣下たちには「百済からの「仏」は、見た目は立派だけど、敬うべきなのか否か」などと言っています。これに対して、蘇我稲目は「百済ではみなが敬っているのですから、日本がこれに背くことができましょうか」と答え、物部尾輿は「いまさら蕃神などを礼拝したら、国の神々が怒ることでしょう」と言っています。二つの答えに困った天皇は、「稲目が言うのだから、試みに礼拝させよう」としたのです。蘇我稲目は、「神」なのだから礼拝すべき、と答えたのですが、尾輿は「国の神」の方を大事にすべき、と言ったのです。つまり、「仏」は本質的に在来の神と同じレベルで捉えられているのです。そして、天皇は稲目に「試しに」礼拝させるというわけですが、何を「試して」いるかと言えば、在来の神々に期待されていたもの、つまり「守護神」としての能力の大きさでした。
 しかし、仏の能力を知ることなど簡単にはできませんから、586年に即位した用明天皇は「自分は仏法を信じ、神道を尊ぶ」として和解の道を探ったのですが、結局うまくいかず、蘇我馬子物部氏を襲い、これを滅ぼし、武力で仏教擁護派が勝ち、これ以降朝廷は「仏教色」に彩られることになります。この仏教は「護国、鎮守」を目的とする仏教で、「出家して悟りを開く」仏教ではありませんでした。これは聖徳太子も同じで、彼は新しい神によって旧弊の朝廷政治を変えようとしたのであって、悟りを求める仏教に帰依して「魂の救済」を求めたわけではありません。
 仏教は本来「悟りを開く」ものでした。でも、これが歴史的に変質していき、先ずは朝廷、貴族のものとして「守護神」と見做され、さらに民衆の間でも人々の願いに応えるものとなっていきます。「極楽浄土」の願望も、つまるところは社会や生活レベルでの「救済願望」だったのです。
 仏教が「民衆のもの」とされていくのが、大乗仏教運動です。「大乗仏教」では、「悟りを得る」ことより、「救済、守護」が目的へと変わりましたが、もう一つの大変化が「民間信仰」との融合です。「民衆の宗教」を標榜すれば、民間の既成宗教を無視することができません。仏教はこうした民間の神々を取り込み、それが「梵天」、「帝釈天」、「吉祥天」等の天部の仏となりました(既述の「神々と人々の絆(4):仏のランク参照)。伝来した仏教自体が既に「他の民間信仰と融合する」という性格を身に付けていたのです。ですから、仏教が神道と習合しても何ら不思議はなかったのです。
 仏教の神道化の一例が「祖先崇拝」です。仏教によれば「死者」は「仏界に成仏している」のですから、法事などして供養する必要はない筈です。仮に葬式を出さず、先祖の霊が「輪廻の輪」の中をさ迷っているとしても「法事」をしたところで今更どうにもなりません。また、お盆で「先祖が帰る」というのも変な話で、仏教では「先祖の霊は仏界にあって」二度とこの輪廻の苦しみの世界に戻ることはありませんし、仏界に行き損なっている場合なら、六道の輪廻の中にいるのですから、帰ってくることができないのです。でも、神道の「祖先崇拝」では、先祖の霊は死んで何処かにいってしまうのではなく、山にあって「死霊」というまだ穢れた状態にあるものが、子孫が供養することでだんだん穢れがとれ、やがて「祖霊」へと浄化していくのだ、と考えます。ですから、神道では「供養の儀式」が必要なのです。また、神道では当然先祖の霊は帰ってきます。先祖の霊はどこか遠くに行ってしまうのではなく、死んで「山」に行き、そこで浄化をされて祖霊になるからです。
 神道では「死を嫌い」ます。なぜなら、それは繁栄、健康が消失ですることであり、そのため、神道は儀式としての葬式はしませんでした。仏教は伝来以来「先祖供養の儀式」をやることによって人々の心に食い込んでいったのです。この仏教の葬式に神道の観念が山ほど入り込んでしまっているのは皮肉ですが、神道と仏教の習合が人々に受容されていったことを見事に示しています。
 神仏習合説として体系化されたものは鎌倉時代に登場します。真言宗による「両部神道」、天台宗による「山王神道」などが有名ですが、平安時代には既に「本地垂迹説(仏が「仮に神の姿」となって現れるとする説)」が唱えられています。仏教側の説ですから、最初は「仏」が主体でした。これが極端な形になって現れるのが「神身離脱説」と呼ばれるもので、神はこの地にあって迷い苦しむ衆生の代表であり、苦しみの神の身から仏の力によって脱却し、神の身から離脱するというものでした。こうして各地の神社に「神宮寺」が建てられ、神の前でお経が読まれたりしたのです。でも、奈良時代の後半、称徳天皇は、神は仏法を守護すべき善なる「守護神」であるとして、神道の神々を再び礼拝したのです。こういう「復権」がはっきりみえるのが「奈良の大仏」の建立の場面で、この時建立を助けるため「宇佐の八幡神」が近くの京都に呼ばれてくるのです(これが「勧請」です)。大変な難事業である「大仏」の建立にやはり強力な助っ人が必要とされ、それに「八幡様」が選ばれたのです。こうして「仏法」を守護する「神」という位置づけが確立していき、「鎮守の神」という性格が付与されていくのです。
 神と仏との間に協力関係が成立するという訳ですから、仏と神ががどれほど同類、同質と思われていたかがよくわかります。こういう中で「神像」などが作られ、貴族の姿をしたものや「僧形」のものなども作られたのですが、どうも「如来」でもなく、「菩薩」でもなく、「明王」とも「天部」とも違うと思われたせいか「神像」は一般化しませんでした。日本の神々は自然の森羅万象を表しているため、人間的な姿として把握することができにくかったようです。
 本地垂迹説によれば、本体の「仏たち」が日本の地に現れる時は「神々」の姿をとります。その姿は違っても、本体そのものは変わらないというのがこの説の主張です。例えば、「伊勢神宮」の「本地」は「大日如来」となるのですが、大日如来が本物で、神の姿は仮の姿ということになり、仏の方が上という意味です。それを表すのが「権現」です。ところが、「明神様」は、「神道」の立場から「優れた神」を言い、「名人」ならぬ「名神」、「明神」です。豊臣秀吉の「豊国大明神」に対して、徳川家康は「東照大権現」と呼ばれていますが、これは家康のブレーン天海が天台宗の僧侶だったからでしょう。なんだか語呂合わせの落語のような話になってしまいました。