行為と倫理について(9)

[遺伝的誤謬]
 私たちがもつ信念は単に歴史的な進化の産物に過ぎないゆえに倫理的信念は真ではあり得ないと主張される場合がある。つまり、私たちの倫理的な見解は人類の歴史と人生の初期に経験する「社会化」によってつくられたに過ぎないゆえに主観主義は正しいというわけである。こうして次のような推論が得られる。

進化と社会化の結果として、私たちは倫理的な言明を信じる。
それゆえ、倫理的言明は真である(真でない)。

上の推論はいわゆる遺伝的誤謬(genetic fallacy)を犯していると哲学者によって批判されるものである。ここでの「遺伝的」は染色体とは何の関係もない。遺伝的推論は信念の起源を述べ、起源からその信念の真理や妥当性を結論として引き出そうとするもので、歴史的な説明の中核となっている。
 多くの哲学者は遺伝的誤謬を発見の文脈(context of discovery)と正当化の文脈(context of justification)の区別を無視することから生じると考える。この区別はフレーゲによって強調され、以後広く流布したものである。ベンゼンの構造を決定する問題を考えていた化学者ケクレ(Friedrich A. Kekulé, 1829-1896)の場合を考えてみよう。実験室での長い仕事の後で、彼は疲れて炎を見つめていた。輪になった二匹のヘビが浮かび、それらは互いの尾を飲み込み、輪をつくっていた。彼は一瞬の直観で、ベンゼン環の考えを思いついた。ケクレがまどろんでいる間にベンゼン環の考えを思いついたことはベンゼンが本当に環構造をもっているかどうかには関係ないことである。発見の文脈を述べるのは心理学者の仕事である。ケクレはその考えを思いついた後、実験をし、その証拠を掴んだ。この部分が正当化の説明が係わるところである。夢の中で彼が思いついた考えから彼の仮説が正しいかどうかを演繹することはできない。しかし、この点を全く考慮しないのも誤りである。完全に合理的と思われるような遺伝的推論を考えることができる。それは当然演繹的でない形式をとったものである。
 私が競馬の勝ち馬を壷の中の数字が書かれた札を任意に選び出すことによって推測し、それを勝ち馬だと決めたとしよう。誰もそれが正しいとは思わない。

私は壷の中にある数字の書かれた札の数を勝ち馬だと決めた。
したがって、勝ち馬が選ばれた札の数であるというのは正しい。

この結論は演繹的に得られたのではない。前提と結論の間には確率的な結びつきがあるかもしれないが、誰かが何かを信じることになったことからその命題が真あるいは偽であることを演繹することはできない。しかし、発見の文脈はその信念が正しいかどうかについての何の証拠も与えてくれないと考える理由もないように思われる。これが正しければ、遺伝的誤謬が含むと思われる二つの異なる表現を区別しなければならないだろう。

命題が正しいことについての結論は誰かがどのようにその命題を信じるようになったかを述べる前提からは演繹できない。
命題が正しいことについての結論は誰かがどのようにその命題を信じるようになったかを述べる前提からは推論できない。

(1)は正しいが、(2)は誤っているだろう。倫理的な主観主義についての推論を遺伝的誤謬というだけで退けることはできない。
 私は壷の札の数字で勝ち馬を決めた。そして、それはその信念が正しいかどうかとは全く無関係であった。このような場合には、遺伝的論証はその信念が確からしくないということを示している。対照的に、依存関係がある場合には、信念の起源を述べることによって、その信念が正しいらしいという結論に導かれる。その例として、友人が結果を示す掲示板で注意深く勝ち馬を確認した場合を考えよう。

友人は掲示板で勝ち馬を注意深く確認した。
したがって、勝ち馬はその確認された馬である。

この結論も以前の場合と同じく、演繹的な結果ではない。しかし、私たちは発見の文脈の記述がその結果を正当化してくれることに同意するだろう。さて、倫理的主観主義の推論に眼を転じてみよう。勝ち馬に関する上の二つの推論からわかるように、それは不完全である。だから、私たちは道徳的な信念に到達した過程が、どの信念が真であるかにどのように関係しているかについての前提を付け加える必要がある。次のテーゼに賛成したとしてみよう。

(A)人々がどの道徳的信念をもつかを決定する過程はどの道徳的言明が真であるかから独立している。

仮定(A)が真かどうか決定するために、(1)人々が倫理的信念に到達した過程、(2)その信念を真あるいは偽にする世界についての事実、を考えなければならない。
 これまでの話を少し一般化してみよう。一般的命題は性質について、特殊な命題は出来事について言及している場合が多いことに注目して、次の例文を考えてみよう。

1何故人は人が好きなのか。
2何故太郎は次郎が好きなのか。

1は一般的な事柄、2は特殊な事柄について述べている。これらに答えようとすると、1には法則や原理を使い、2には由来や経緯を使って説明するだろう。1には人間がもつ本性を使い、2には伊作と史門の間に起こった過去の事柄を使って説明するのが自然である。これを認めるならば、一般的性質の説明と個別的な出来事の説明では遺伝的誤謬について大きく異なることになる。説明が一般的性質に関する場合は法則、メカニズム、仕組み等が説明に使われ、個別の出来事の場合には歴史的な由来、経緯がないと説明にならない。法則と状態の対は物理学での説明の説明項であり、推論としての科学的説明では不可欠のものであった。3章では法則と状態のいずれが説明にとって重要かは述べなかったが、1は法則が、2は状態が解答に対してより重要な役割を演じていることがわかる。したがって、2のような場合には説明項に由来を使った説明が遺伝的誤謬であると断定することができないこともわかる。
 では、仮定(A)に登場する道徳的信念や言明はどのような命題なのだろうか。それが1のような一般的な事柄を指示しているのか、それとも個別的な事柄を指示しているかで(A)の真偽は違ってくる。「人の好み」と「次郎の好み」は(A)に対して、それぞれ真、偽となる例だろう。一般に、倫理的性質とその実現である倫理的行為は、一般的と個別的という違いゆえに、前者は遺伝的誤謬、後者はそうでないという違いを生むのである。つまり、倫理的なものをタイプあるいは性質と見るか、行為あるいはトークンと見るかによって遺伝的誤謬かどうかの違いが出てくるのである。
自然主義的誤謬]
 次に、自然主義的誤謬 (naturalistic fallacy) と呼ばれる誤謬について、自然主義的立場から再考してみよう。これはムーアが『倫理学原理』で述べた誤謬である。彼は倫理的性質、自然的性質と性質を二分した上で、行為についての倫理的性質はその自然的性質ではないと考えた。例えば、「道徳的に正しい」という倫理的な表現は「快を最大限にし、不快を最小限にする」という自然的な表現と同じことを意味していない。したがって、倫理的性質は自然的性質ではない。それゆえ、倫理の理論は、倫理的性質と自然的性質を同一視してはならない。同一視する理論は自然主義的な誤謬に陥っている。「倫理的」と「自然的」を同じと考えることが自然主義的な誤謬というわけである。ムーアは「倫理的」と「自然的」の間には越えることのできない壁が存在し、それを乗り越えることは誤りであると考えたのである。
 この自然主義的誤謬について、次のサールによる推論を考えてみよう。

「温度」という表現は「平均運動エネルギー」という表現と同じことを意味していない。
だから、「温度」と表現される性質は「平均運動エネルギー」と表現される性質と同じではない。

この推論は誤っているだろうか。私たちは温度と平均運動エネルギーが同じだと習ったはずである。確かに言語表現は異なるが、異なる表現「温度」と「平均運動エネルギー」は同一の性質を指示している。意味は違っても、指示される性質は同じである。だから、下の矢印は成立しない。

表現の違い=意味の違い → 表現される性質の違い

つまり、この推論を自然主義的誤謬と呼んだとすれば、それは誤謬であることになる(Naturalistic Fallacy Fallacy)。ムーアは自然的性質と倫理的性質の意味の違いから、二つの性質が異なると考えたが、これは上の矢印が成立するということである。「倫理的」と「自然的」の意味の違いが、温度や平均運動エネルギーと違って、存在のレベルの違いまでを含意しているなら、サールの推論との比較はできない。但し、その場合はムーアの議論は論点先取になる。というのも、最初から異なる存在レベルを意味の中に紛れ込ませることになるからである。
 ここまでの議論から、心の哲学、行為の哲学、そして倫理や道徳に関して共通の特徴が見えてくる。それは考察の対象である、心、行為、道徳のいずれの対象や性質も、自然的な対象とその性質にどれだけ似ており、またどれだけ似ていないかによって結論が微妙に異なってくる点である。心的性質、心的因果、道徳の諸性質はどれだけ自然的な性質に似ているのか。この点が明瞭になれば、今までの議論の大半は解決することになるだろう。