行為と倫理について(6)

4倫理の説明
アリストテレスの考え]
 アリストテレスの倫理や道徳についての研究は主に『ニコマコス倫理学』において展開されている。彼の倫理的な研究の出発点は「幸福は何か」という問いである。倫理は人間の主要目的、最高善を見出すための試みであり、それは幸福であるというのがアリストテレスの答えである。本質がものに内在するように、幸福は人間の本性に基づき、個人的経験に根ざした実践的なものでなければならない。幸福は人間に固有の生活や仕事の中に見出されなければならない。人間に固有のものとは合理的存在としての生活であるから、そのような生活の中にこそ真の幸福がある。アリストテレスはこの幸福概念を人間の魂の分析を通じて明らかにしていく。人間の魂は合理的な要素をもつと同時に、植物や動物と共通の合理的でない要素ももっている。情動や欲求には合理的な要素と非合理的な要素の両方が関与している。情動や欲望を正しくコントロールする人間の能力が道徳的な徳である。この徳は二つの極端な性質の中間にあり、情動や欲望を規制する性質である。私たちは恐れに対しては勇気をもつが、それが行き過ぎると無謀になる。勇気は臆病と無謀の中間にある。多くの道徳的な徳は勇気のように、二つの悪の中間に位置する。
 上の説明から、アリストテレスが目的論的に行為と幸福を考え、中庸としての徳をその理想としていたことがわかる。既に述べてきたように彼の4原因、心の分析はその後の展開によって大きく変わり、彼とは異なった世界や人間についての議論がなされてきた。これは行為や倫理に関しても同じである。だが、デカルトの心身相互作用論が私たちの常識として存続しているように、アリストテレスの倫理についての考えはいまだに日常生活の中で生きている。実際、上の叙述に違和感を覚える人は少ないのではないか。倫理や道徳の規則は自然科学の理論や法則に比べれば、はるかに保守的である。文化や伝統がそうであるように、倫理や道徳も時代、地域によって異なっており、その歴史的、実証的な研究は重要である。だが、哲学が倫理や道徳を研究してきたのは、「倫理的」、「道徳的」な性質は何かという基本的な問題である。倫理や道徳についての歴史を語る代わりに、心の場合と同じよう倫理や道徳の本性の問題を20世紀の経緯を通じて考えてみよう。
哲学の基本的な謎の一つは心をもつ人間が自然の中で占める地位である。何が心的なものをそうでないものから区別するのか、心的なものと心的でないものの間にはどのような関係があるのか、心的なものはそうでないものと根本的に異なるのかといった問いを誰もが何度かは経験しているはずである。私たちは他の物体と同じように自然の法則に従う対象なのか、それとも私たちは特別の対象で自然法則を適用する主体なのか。この問いに対するありふれた答えは、私たちは自然の法則に従うと同時にその法則の適用範囲を超えた特徴や性質ももっているというものであろう。身体は自然法則に従うが、心はそうではないというのが伝統的答えである。この表現の「心」、「心的なもの」を「倫理」、「倫理的なもの」で置き換えて見てほしい。心の場合と同じようにもっともらしい文章になるだろう。これは心と倫理や道徳が伝統的に結びついてきたからだけではなく、問題が実は根底でつながっているからである。

5倫理的真理 
[倫理的命題の真偽]
 道徳の本性や道徳的な概念について疑問をもつことと、個々の行為を指導する倫理的な原理は何かを問うこととは異なっている。戦場で道徳の本性について考えることはないだろうし、倫理学の授業で差し迫った行為の決断を迫られることもないだろう。倫理や道徳についてのこれら二つの問題は違っており、そのため、メタ倫理と規範倫理と区別されてきた。倫理についての一般的考察と、実際に行為する際の規範の違いがこの区別のもとになっている。それは物理学についての考察と実際の物理的な問題の解決が異なっているのと同じである。
 では、倫理的な考察は何についてのものなのか。これを倫理的な命題は何についてのものかと理解してみよう。すると、二つの立場が明瞭に区別できる。倫理的な命題は真偽をもつという立場と、それは意見に過ぎないという立場に分けられる。この形而上学的な立場の違い鮮明にするために、次のような問いを考えてみよう。

(1)倫理的な真理は存在するか。
(2)倫理的真理が存在するなら、何が倫理的な真理を生み出しているのか。

これらの問いに対して、次のような三つの異なる解答がある。

(解答1)倫理の主観主義(Ethical subjectivism)と呼ばれる解答である。
(1)への解答は「否」で、倫理には真理はなく、あるのは意見だけである。というのも、真偽のある命題はみな事実についての命題(is-propositions)であり、したがって、当為的な命題(ought-propositions)は真偽のない命題であり、倫理的な命題は当為的であるから真でも偽でもないことになるからである。(2)への解答は当然ない。

(解答2)倫理の客観主義(Ethical realism)と呼ばれる解答である。
(1)への解答は「是」で、(2)への解答は、客観的な倫理的事実が存在することから倫理的な真理が言えるという解答である。誰かの意見とは独立に客観的な倫理的事実が存在し、その事実に照らして真や偽が主張されることになる。

(解答3)倫理の規約主義(Ethical conventionalism)と呼ばれる解答である。
(1)への解答は「是」である。しかし、(2)への解答は、倫理の客観主義とは異なり、誰かの意見が倫理的な真理を生み出しているというものである。誰かとは神、社会、あるいは個人いずれでもあり得る。意見をもとに、それを契約によって守るという意味で主観的ではない仕方で真や偽が言えるのである。

これらの解答の中で現在の私たちに馴染み深いのは規約主義であろう。「規約」、「契約」は現代社会で親しく接する概念である。倫理の場合の代表例はサルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)であり、彼は個人が自らの決断と責任において行為するという徹底した個人の規約主義を主張した。この規約主義に比べると、主観主義や客観主義はわかりにくいかもしれない。それらをどのような具体的なイメージで考えたらよいのだろうか。次の節で述べられる自然主義的誤謬は倫理的なものが自然的なもの、物理的なものと異なることを主張しており、主観主義や客観主義を考える上での手がかりを提供してくれるだろう。

(問)倫理的真理に対する三つの解答の違いを要約せよ。