行為と倫理について(1)

A:不十分な証拠に基づいて何かを信じることは正しくない

という主張はもっともであり、誤っているようには見えない。私たちは人間や社会について十分な知識をもっていない。だから、より十分な知識を求めようとする。そして、その知識と経験的な証拠に基づいて人間や社会の本性を知ろうとする。だが、人間も人間がつくる社会も実に複雑である。その複雑さの原因の一つは人間の介在である。私たち自身、人間は決定論的でも合理的でもないと思っている。だが、どのような意味で非決定論的なのか、非合理的なのかは存外わかっていない。それでも私たちは人間について述べ、主張しなければならない場面に常に遭遇する。そのような場合、人間について不十分な知識や証拠しかなくとも、その範囲内で人間について正しいことを主張しなければならない。このような場面では命題Aは正しくないように思えてくる。また、人間に関する十分な知識が得られたとしても、それを拒むのも私たちである。自分を知られたくない、人間の本性を暴露したくないという気持をもっている。実際、人間に関する事柄がすべてわかったとしたら、どのような事態を想像できるだろうか。
 哲学が謎を解くのに成功しても、その謎が解決されたときに何が起こるかは、その謎を解いた方法だけではわからない場合がほとんどである。理論的な謎解きではない形の謎解きがあってもよい。行為や倫理の場合、哲学は謎解きのための指針しか与えることができず、実際の謎解きは各自がその状況に応じてしなければならないような場合が多い。説明は一つの出来事の説明だけでなく、多くの出来事をまとめて説明する点にその特徴がある。これと同じように、行為や倫理についての知識は特定の事例についてのものではなく、事例に共通する特徴だけを抜き出したものが多い。したがって、特定事例についてすぐに当てはまるとは言えず、各自が自分の置かれた状況で謎解きを実行しなければならないことになる。
多くの問題がこれまでの議論で解決されずに持ち越されている。だが、それら問題を解かれたものとして扱わなければならない場合が行為や倫理では始終出てくる。そこで、以後の議論を明解にするために、この章で仮定される命題を列挙しておこう。

人間は論理、言語、科学的知識を共有している。
人間は心と身体をもち、それらの間には密接な関係がある。
人間は社会的であり、歴史をもっている。

このような前提のもとで、行為と倫理に焦点を絞って、行為については自由と決定、倫理については倫理的性質を中心に考えてみよう。

1行為の因果連関
[心が関与する行為]
 心とは原理上何であるかを主張することと、心の具体的な性質や現象を実際に追求することは同じではない。遺伝子の基本的な仕組みがわかれば、そのことによって、その遺伝子をもつ生物個体の行動がすぐにわかるものではないように、心の仕組みの原理がわかったからといって、すぐに心の性質や現象が説明できるわけではない。遺伝子の仕組みの解明に使われた考え方や手法がそのまま生物個体の性質や行動の解明に適用できないように、心が働いて行為に結びつく場面では、たとえ心が脳の機能に過ぎないからといって、脳生理学の考えや手法で心の関与する行為を扱うことはできない。実際、生物学の中でさえ、遺伝学と生態学は考え方も手法も異なるだけでなく、研究対象それ自体が異なると考えられている。生物は遺伝子をもっているが、その遺伝子を説明する理論だけによって生物の生態を説明することはできない。
[行為の因果的構造と自由意志]
 私たちのの行為は私たちが棲む世界の中で実行される。その世界は因果的な連関をもつ出来事や状態の集まりである。行為もまた出来事の一つであるから、世界の因果連関の中に組み込まれている。このような因果の鎖の一部分を取り出してみるなら、次のような一連の系列が見えてくるだろう。

環境、遺伝子 →A 心(信念+欲求)→B 行為

矢印→Bは行為の原因としての心の関与を示しているが、矢印→Aは外部の原因によって引き起こされる心の状態 (特定の信念や欲求をもつこと)を示している。心が行為に関与しているかどうかは私たちの常識的な世界ではしばしば重要な役割を果たす。例えば、ある行為が故意か否かは裁判の判決において大きな違いを生む。しかし、既に議論を重ねてきたように、心の働きと物理世界との関係は決して明らかなものではない。この明らかでない関係が引き起こす典型的な問題が自由と決定に関するパズルである。このパズルは次のように表現できる。人間の信念、欲求、そして行為がその人自身のコントロール外のものによって引き起こされるなら、そこに私たちの自由な裁量は入っていない。上の矢印→Aでは環境や遺伝子が人間の心のあり方を決定しているように見える。環境や遺伝子は私たちのコントロール外のものである。それらが心の状態を決定するなら、矢印→Bの結果は自発的になされた行為ではないことになる。だが、私たちは自分の行為が自発的なものであり、それゆえ、その行為に対して責任をもたなければならないと思っている。そうであるなら、どのようにして行為が自由選択の結果と言えるのか。これが伝統的なパズルである。
 自由な行為に見えないような行為は私たちの周りに溢れている。そして、そのような行為は社会にさまざまな問題を生じさせている。例えば、病的な盗癖をもつ人の窃盗は自由になされた行為とは言えないことから、法的な責任を免れるのだろうか。また、拒むことのできない命令によってなされた殺人は法的に罰せられるのだろうか。このような問題の背後にあって、私たちを悩ませている概念が因果性(因果作用)である。
 ある出来事が別の出来事を引き起こすとは何を意味するのか。因果作用は原因と結果からなっているが、原因はその結果の十分条件である必要はない。また、必要条件である必要もない。つまり、原因、結果と前提、帰結の関係は類似していても基本的に異なったものである。これは既に述べた通りである。私たちは前提と帰結の論理的関係についてはある程度知っているが、原因と結果の因果関係については思っているほどは知っていない。

[行為の決定論と非決定論
 因果的な連関に関して古来議論されてきた考えは次の二つである。

決定論:因果的な事実を完全に記述できれば、何が将来生じるか決定できる。
決定論:現在の完全な記述が与えられても、将来に二つ以上の可能性を残す。

因果的決定論はあらゆる因果的に関連する事実が与えられれば、将来はただ一つだけ決まると主張する。すべての物質変化が決定論的で、心も物質であれば、人間の行為は物理的に決定されていることになる。実際、古典力学は運動変化についての決定論を主張してきた。この世界観は20世紀初頭まで信じられてきたが、量子力学の登場と共に非決定論的な世界観が浸透し始めている。一方、物理学以外の領域では人間の行為の自由選択、意志の自由が古くから認められてきたため、19世紀には社会科学で既にその自由の入った出来事や状態を確率・統計概念を用いて取り扱っていた。この二つの流れと心の特徴づけは上述のパズルとなって私たちに突きつけられている。心が物理的なものかどうかを未定のままにしておいても、次のような二つの選択肢の間で決断を迫られることになる。

決定論が正しいなら、確率は私たちの知識や情報の欠如を示し、主観的なものになる。
決定論が誤っているなら、確率は世界についての客観的な事実を述べていることになる。

[非決定論と自由]
 では、非決定論は私たちを自由にするのか。それは私たちに自由を保証する理論的な根拠になるのだろうか。世界が非決定論的なら、上述の行為の因果連関は次のように修正しなければならなくなる。

環境、遺伝子、偶然(chance) →A 心(信念+欲求)→B 行為

この図式通り、私たちの信念と欲求が環境、遺伝子、そして偶然によって決まっているとしてみよう。決定論が私たちの自由を奪うなら、偶然もやはり私たちの自由を奪うことになる。私たちが自ら自由に決定するのではなく、偶然に左右されるままになるというのは、私たちにとっては厳格に決定され、自由の入る余地がない場合と大同小異である。偶然は私たちのコントロール外のものであり、私たちの自由な決断は上の図式では入る余地がない。偶然を認めても、それだけでは自発的な行為は何ら説明ができないのである。

(問)偶然の存在を認めても自由が保証できないのはどうしてか。

 因果作用は決定論が成立しない世界でも可能である。非決定論的な世界でも因果作用は存在する。原因と結果の間に確率的なつながりがある場合を考えてみればよい。決定論的でない因果連関が想像できるだろう。つまり、因果性と決定論、因果性と非決定論はそれぞれ両立する。したがって、真の問題は決定論と自由が和解できるかどうかではなく、因果性と自由が和解できるかどうかである。量子力学決定論は誤りであると主張しても、因果性そのものまで否定はしていない。このような意味で、因果性こそが自由を考える上での鍵である。
 ここで、決定論と運命論(fatalism)の区別も重要である。決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しない。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しない。しかし、運命論はこれを否定する。現在あなたが何をしようと未来はそれとは無関係に決まっているというのが運命論の主張である。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張している。運命論は私たちの信念や欲求が無力であることを主張するが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されている。
 事前に一つ注意を述べておこう。私たちが思考する、推論することを決めるのは意志や欲求によるが、それら意志や欲求は思考や推論の内部には侵入してこない。しかし、信念や信条はしばしば内部に侵入する。いや、その侵入なしには思考や推論は成立しない。「私は地球が丸いと信じる」、「私は地球が丸いと思う」から「地球は丸い」を導き出すのが私たちの知識獲得の過程である。だが、「私は地球に丸くあってほしい」、「私は地球が丸いことを望む」から「地球が丸い」を導き出すことはできない。上の叙述では心の働きとして信念と欲求を代表させているが、信念と欲求はこのような違いをもっていることに注意してほしい。

(問)信念と欲求の違いを多面的に述べよ。