時間の変化(2)

[時間の歴史1]
 アリストテレスは時間を運動に結びつけ、運動によって時間を測ろうとする。彼は「過去が既に存在せず、未来はまだ存在しないので時間は存在しない」(誰の主張だろうか?)という考えを否定し、時間を枚挙できる運動として定義する。ゼノンの飛ぶ矢の議論では、矢が瞬間に動かなければ、それは動くことができないとされたが、アリストテレスにとっては時間自体が運動であり、その時間の流れが矢の運動であるから、ゼノンの議論は否定される。
 アウグスティヌスにとって時間は謎そのものだった。アリストテレスの問いに対する答として、アウグスティヌスは、例えば過去が存在するのは現在それを考えている時だけであると主張した。したがって、アウグスティヌスは現在、過去や未来のものや出来事を考えている人間なしには時間は存在しないと結論した。だが、これに満足したわけではなく、彼にはやはり時間は謎だらけだった。
 17世紀にガリレオは絶対的な時間を記録する時計を宇宙の中に見出した。それは木星の衛星の食の回数だった。ガリレオはその前(1583年)に振り子の基本性質を発見している。そして、1640年頃最初の振り子時計を自らデザインした。実際に時計作りに成功したのはホイヘンスで、時計がつくられたのは1656年だった。
 デカルトやボイルらによる機械論的宇宙観の最初の総合が1687年のニュートンの『プリンキピア』である。ニュートンの力学法則の記述全体は時間に依存しているが、それは絶対的で数学的であり、時間に関する新しい考えとなった。ニュートンは絶対時計を仮定し、宇宙とは独立に時間を測定できると考えた。そして、時間は数学的な地位を与えられ、物理学は時間概念に全面的に基づく法則の上につくられることになった。
 このニュートンの時間概念に納得しなかったのがライプニッツである。彼は神が合理的で、それゆえ、どんな作用にも理由があると信じていた。では、神は宇宙を造る瞬間をどのように選んだのか。ある時間を別の時間から区別できないなら、神は創造の瞬間を合理的に決めることができなくなる。現在誰もライプニッツの論証を科学的だと考えないが、哲学的に魅力的な議論であることは確かである。彼は別の論証も使っている。二つのものがあらゆる点で同じなら、それらは一つである。ニュートンの絶対空間と絶対時間はその定義からしていつでもどこでも同じであるから、どんな二つの地点も二つの時点と同じように一つである。
 ニュートンによる正確な数学的法則に基づく宇宙の記述からの別の帰結はラプラスの普遍的決定論である。宇宙のすべての粒子の正確な位置と運動量がわかれば、過去や未来の位置や運動量がすべてわかる。ラプラスは力学法則のもとでは世界の過去や未来の完全な姿はすべて現在の世界に内蔵されていると考えた。
 ニュートンの法則は正確な予測を生むという理由から急速に受け入れられていった。だが、幾つかの疑問を含んでいた。中でももっとも大きな疑問は、いわゆる時間の向きに関するものだった。ニュートンの法則は時間に関して全く対称的であるが、私たちの経験は時間や出来事が未来に向かって流れ、その向きは逆転しないという信念に合致している。クラウジウスが熱力学の第二法則を提唱したのは1850年だった。時間や出来事の向きに関して対称的でない最初の法則がこの第二法則だった。第二法則によれば、閉じたシステムのエントロピーは常に増大する。

2 アウグスティヌス(354-430AD)
 時間の哲学的な分析では必ずアウグスティヌスの考えが取り上げられる。彼の時間についての発想・理解が現代の私たちにも通じているからである。アウグスティヌスが時間について現代的な考えをもっていたことは、次の二つのよく似た問いを比較すれば一目瞭然である。

神は世界をつくる以前に何をしていたか。
ビッグ・バン以前に何が起こったか。

最初の問いに対するアウグスティヌスの解答は、二番目の問いに対する現代の物理学者の解答に極めてよく似ている。時間は神が世界をつくる際、あるいはビッグ・バンで世界が生まれる際に始まったので、それ「以前」というのはそもそも存在さえしない。だから、上の二つの問は意味をなさない。これが両者に共通する答えである。問いとそれらが出された状況は異なっていても、両者の解答は何とよく似ていることだろう。
 アウグスティヌスが直面した問題は神による世界の創造を説明することだった。神とその創造については次のような三つの主張がある。

(1) 神は永遠である。
(2) 神は恣意的でない。
(3) 神はある時点で世界を造った。

これら三つの主張の二つから残りの一つの主張の否定が導き出されてしまう。(1)と(2)からは創造された世界が永遠で、したがって、(3)は誤りになる。(2)と(3)からは神が永遠ではないことが導き出され、したがって、(1)に反することになる((1)と(3)からは何が出てくるだろうか)。これでは神の創造を説明できないことになってしまう。アウグスティヌスは時間についての独特の考察によってこれを整合的に説明しようとする。彼は神がある時点で世界を造ったことを否定する。神は時間の中に存在しているのではないから、ある時点で何かを行なうということはないと彼は考える。そうではなく、世界を造る際に時間も一緒に造ったのである。時間は時間の中に存在する人間にだけ属する。神はすべてのものをそれらが現存しているかのように観ている。すべてのものは神の眼には過去や未来をもっていない。だが、私たちの時間的な見方では、すべての出来事は時間の経過の中で起こるものとして映っている。
 アウグスティヌスは時間の三つの区分、つまり、三つの時制(tense)を「存在」という概念を使って定義する。

(1) 過去は既に存在していないものである。
(2) 現在は今存在しているものである。
(3) 未来はまだ存在していないものである。
(これらの定義の「既に」、「今」、「まだ」は時間を仮定していないのだろうか。仮定しているなら、それはどのような身分のものだろうか。)

アウグスティヌスはこれらの定義を心理的なものと考える。過去は「記憶」の働きにより、現在は「注意」の働きにより、未来は「期待」の働きによって、私たちに経験される。時間はそもそも存在せず、神はこれらの働きをもつ人間を造ることによって、時間を造ったのである。

(問)神の眼から観た時間、科学者の眼から観た時間、生活する私たちの目から観た時間はどのように異なっているだろうか。

 「時間とは何か」という問いは「Xは何か」というソクラテス的な問いの一つであるが、この問いに対してアウグスティヌスは次のように答える。それは何かと問われなければ何かはわかっているが、問われて説明しようとするとわからなくなる。とはいえ、時間には過去、現在、未来があることを私たちは知っている。この時間の区別(=時制)を考え出すと、時間のもつ特異な性質が浮かび上がってくる。『告白』Book XI にはアウグスティヌスの時間論が展開されている。過去や未来は存在しない。というのも、過去は過ぎ去ってしまったもので、未来はまだ来ていないものだからである。過去も未来も存在しないなら、現在は過ぎ去ることなくいつも現在であり、それは永遠であることを意味している。それゆえ、現在だけでは時間を十分に特徴づけることはできない。そこで、アウグスティヌスは時間がどのくらい続くかを考える。出来事や時間間隔が短い、長いというとき、そのように言うことによって何が述べられているのか。過去や未来が長い、短いはそれが存在できる現在のとき、長い、短いと考えられる。だが、明らかに現在は延長をもっておらず、瞬間でしかない。過去も未来も存在せず、現在は瞬間であるとすれば、「何かが起こっている」とか「何かが起こるだろう」ということについて私たちが話しているとき、一体何が話されているのか。これにどう答えてよいかわからなくなる。だが、アウグスティヌスは過去や未来の話をすべて現在の話に還元しようとする。つまり、過去や未来についての主張が真や偽であるのは、過去の記憶や未来の期待についての現在の主張が真か偽であることと同じだと考える。

(問)アウグスティヌスにしたがって、「昨日雨が降った」という言明を、現在の主張に書き換えるとどのようになるだろうか。書き換えられた言明の真偽と元の言明の真偽は同じ条件で判定されるだろうか。

(問)時間は物体が運動することによってつくられるものだろうか。そうなら、運動変化がなければ、時間もないのだろうか。シューメイカー(Shoemaker)はこの問いに対して次のようなモデルを考えている。(‘Time without Change’, The Journal of Philosophy, Vol. 66, No. 12, 1969, 363-381.)

三つの天体からなる可能世界があり、それぞれの天体A、B、Cはそれぞれ3年、4年、5年に一回、それも最後の1年間すべての変化がなくなるとしてみよう。例えば、天体Bは3年通常の変化があり、4年目にすべてが静止する。各天体の静止は他の天体から観測できる。この世界では60年に一回、あるいは60年目毎にすべての天体は静止する。

このモデルは「変化がなければ時間もない」という主張の反例になっている。どのような理由で反例になっているか説明せよ。

 ここでアウグスティヌスの主張を整理してみよう。彼によれば、世界には現在の時間、あるいは現在の出来事しか存在しない。未来はまだ存在していないし、過去はもう存在していない。だが、このような考えは多くの問題を生み出す。未来や過去について語るとき、何が語られているのか。過去と未来が存在せず、現在が瞬間に過ぎないなら、時間はどのように延長できるのか。延長していないなら測定できないことになる。時間の経過を説明するのに過去や未来は必要ないのか。現在しかなければ、時間はなく永遠しかないことにならないか。
 ところで、過去も未来も存在しないというアウグスティヌスの見解の拠り所は何か。それは明らかに次の主張にある。

まだ存在しないものは存在しない。
もう存在しないものは存在しない。

ここで「存在」には時間的な意味と空間的な意味が含まれていることを思い出してみよう。時間的には

存在する=現在存在する

という等式が、アウグスティヌスの言う通り自然に成立するように見えるが、

存在する=ある場所に存在する

という空間的な場合は、「東京は日本に存在するが、中国には存在しない」という文が正しいように、いつも等式が成立するとは限らない。したがって、時間についても、

存在する=ある時刻に存在する

というように、空間の場合と同じように考えるなら、「ケーキは1999年2月5日にはもう食べてしまい存在しないが、同年2月4日にはまだ存在していた」という文が正しいことが説明できる。だが、「ケーキはもう食べてしまい存在しないが、昨日はまだ存在していた」という文は説明できるだろうか。つまり、時間的な存在と空間的な存在を全く同じように考えて問題はないのだろうか。

(問)時間的な存在と空間的な存在を同じように扱った場合の問題点を挙げよ。