時間の変化(1)

[時間に関する三つの問題]
 これまでの少々退屈な科学哲学的な議論とは異なるスタイルで「時間」(とそれに関連する空間)についてあれこれ思いを巡らせてみよう。時間(と空間)は変化を考える上で欠かせないものである。そのため、ギリシャ時代以来哲学の格好の研究対象となってきた。物理学での変化は、例えば、物体の時空上の位置変化として説明されるが、そこで鍵となるのは時空概念そのものである。確かに経験科学は時間と空間を巧みに使って変化を見事に扱ってきたが、時間そのものを扱うことはいまだにうまくできていない。時間の利用は概念上も実用上も成功してきたのだが、時間自体の分析は決して成功しているとは言えない。このことは空間についてもほとんど同じである。
 時間についての物理学は時間を力学において巧みに使ったニュートンライプニッツの間での論争から始まる。ニュートンは時間(そして空間)を物理的な実体と考え、その理由として絶対運動を挙げたが、ライプニッツは時間が世界全体の中での関係でしかなく、世界に相対的なものだと考えた。この論争はその後現在にまで引き継がれている。時間は「実体的」か「関係的」かという問いは、次の例文をどのように考えるかの違いとして具体的に示すことができる。

すべてのものを3m右に移動する。
すべてのものを3分過去に戻す。

上の二つの文が実質的な物理的変化を引き起こすというのが(時間と空間に関する)実体論の立場である。最初の文は時間ではなく、空間に関するものだが、ニュートンは時間だけでなく、空間に関してもそれを実体的に捉えた。一方、ライプニッツは時間と空間の両方について関係的と考え、上の二つの文は実質的な物理的変化を何ら引き起こさないと主張した(不思議なことだが、例文の「すべてのもの」を「あるもの」に変えると、いずれの立場でも同じような物理的変化を引き起こす)。
 上の例文の「3m右」、「3分過去」をそれぞれ「3m左」、「3分未来」に変えたらどうなるだろうか。それでもニュートンライプニッツは変えられたものについて全く同じ議論を戦わせることができる。しかし、誰の目にも、

すべてものを3分過去に戻す、
すべてのものを3分未来に進める、

が時間に関する異なった操作であることは明らかだろう。その操作の違いは時間的な変化の方向の違いである。過去と未来は現在から見ると異なる時間的な方向である。こうして、時間には実体的か関係的かという問いから独立した別の問いがあることがわかる。それは「時間には方向があるか」という問いである。正確には、時間的な状態の経過、変化が一定の方向をもっているかどうかという問いである。
 状態変化に方向がある場合、私たちはその方向をもとに時間を二通りの仕方で考えてきた。マクタガートはこの二通りの時間をそれぞれA-系列、B-系列と呼んで区別した。A-系列は私たちが日常生活で馴染んでいる、過去、現在、未来をもった時間であり、未来からやってきて現在を通過して、過去に過ぎ去っていくような時間である。一方のB系列は数直線で表される前後関係だけをもった時間で、物理学等でパラメーターとして広く使われているものである。A-系列は時制(tense)をもつが、B-系列はもたない。すると、日常的な出来事の物理学的説明にはA-系列がB-系列に還元できるかどうかが重要な問題となってくる(自然言語には通常時制があり、それを使て私たちは過去、現在、未来等を表現している)。
 以上述べてきたものが時間に関する三つの主要な哲学的問題である。量子力学や進化生物学といった特定の科学理論が何をどのように説明しているかではなく、時間がどのようにさまざまな仮説、理論を使って説明されるかをここでは考えてみよう。時間に関わる理論や仮説のエッセンスを使って、複眼的、総合的に時間の真の姿を考察してみよう。できるだけ普通の言葉を使って表現し、時間に関わる問題の所在とその解決を明らかにしてみたい。近年の科学哲学の流行の一つにできるだけ自然言語を使って問題と解答を表現するというスタイルがあるが、このような叙述の危険な点は日常的な表現が思わぬ誤解を生むことである。また、背後にある理論的な考察が読み取れず、表現された字句だけで理解し、さらに深く問題を掘り下げる、他に応用するといったことができないという欠点ももっている。数式は規則にしたがって展開できるが、日常文の変形は恣意的で、結果として思わぬ誤りを生むことがある。これらのことは否定できないが、まずは問題を掴むことが出発点であることから、あえて危険な賭けに出てみよう。したがって、私は注意深く日本語の言葉を選ばなければならない。その自信が十分あるとはとても言えないので、一層慎重に時間の哲学的な分析をしたい人はさらに丁寧に考えてほしい。
 ここでのタイトルは「時間について」であるが、空間も密接に関連しているので必要に応じて空間についても言及することになる。

1時空の哲学的議論-これまでの復習
 日常生活での時空概念は多くの常識からなっている。時間や空間の常識には次のようなものが挙げられる。

空間は実は何もなく、ものが占めている部分しかない。(void, pneuma)
時間は流れる。(flow)
過去、現在、未来がある。(past, present, future)
空間と時間は別のものである。(space and time, space-time, spacetime)
「いま」や「ここ」はどこでも同じ「いま」、「ここ」である。(now, here)
瞬間や区間がある。(instant, interval)

このような常識的表現は際限なく列挙できる。これらの言明の中でどれが信頼できるもので、どれが信頼できないものなのか。そして、その区別の根拠は何なのか。
 常識はかつて新しい考えとして登場してきたものだった。だから、多くの常識は歴史をもち、古い常識、新しい常識といった区別が背後にある。特に、私たちが日常生活で必要とするような概念は常識をつくり上げる要素として長い歴史的変遷を経てきたものばかりである。そして、時間や空間はそのような概念の代表である。
 このような常識に取り囲まれた時間や空間を考え直すために、ギリシャ哲学での時間、空間の捉え方から話を始めることにしよう。

 ギリシャの哲学的探求はプラトンアリストテレスによって集大成されるが、その集大成は過去の遺産を正しくまとめたものとは言えない。彼らが隠してしまった問題、解決したと考えた問題はその適切な処理を今でも待っている。

 ついでながら、これまでの内容もまとめると次のようになる。自然科学では、変化をどのように理解し、表象するかが追求され続けてきた。自然科学はつまるところ変化の表象と理解である。

(問)プラトンアリストテレスの誤った理論を挙げ、それまでの理論、その後の理論と比較してみよ。特に、変化、時間、空間、原子論について考えてみよ。

 まず、次のような論証を考えてみよう。それは保存性から変化の否定を導出する論証である。

A. 変化があれば、以前になかった、新しいものが存在するようになる。
B. あるものが以前に存在しなかったなら、それは無である。
C. だから、変化があれば、新しいものが無から存在するようになる。
D. だが、無から新しいものが存在するようになることはない。
E. それゆえ、変化はない。

保存性からの変化の問題が重要なのは、保存性という概念を明らかにし、変化の本性に隠された「新しい-古い」の間の緊張をさらけ出すからである。類似の論証が矛盾概念を使ってできる。

A. ものがある性質からそれと矛盾する性質へと変化するなら、そのものはいずれか一つの性質、または両方の性質をもつか、あるいはいずれの性質ももたないかである。
B. そのような変化するものは正確に一つの性質をもたない。というのも、その性質をもてば変化の前にもっていたか、変化の後でもつかだからである。
C. そのような変化するものは両方の性質をもたない。というのも、それらは対立する性質だからである。
D. そのような変化するものはいずれの性質ももたないことはない。というのも、それら性質は矛盾し、相互に余すところのないものだからである。
E. それゆえ、ものがある性質からそれと矛盾する性質へと変化することはない。

哲学者が変化や生成の過程についての精密な理論をつくろうとすると、どの性質も適用できないときの「溝」、いずれの性質も適用できるときの「重複」に直面する。上の論証は溝も重複も不可能であることを主張している。このような変化に関するパラドクスはどのように回避できるのだろうか。ここで原子論の形而上学を思い出してみよう。その特徴は次のようなものだった。

1. 原子と真空:変化しない原子と変化しない真空が存在する。両方とも永遠で、それらだけが存在する。
2. 運動:変化は真空中の原子の運動であり、原子の再配列である。
3. 結合:原子は互いに結びつくことができ、凝集して安定したマクロな物体をつくる。

原子論は変化のパラドクスを別のパラドクスに巧みに置き換える。変化の問題を解く代わりに、変化するものがないと主張する。では、アリストテレスの場合はどうだったろうか。その形而上学の特徴は次のようなものだった。

1. 実体と性質:基本的事物は具体的な物体であり、それらは日常生活で目にするものである。それらは「合理的」とか「4本足である」といった性質をもっている。
2. 現実態と可能態:現実の性質に加えて、実体はその「内側に」可能的な性質をもっている。この可能的な性質が現実的になるとき変化が起こる。緑の葉は赤色を可能性としてもっており、それが秋に現実的になったとき紅葉する。
3. 充満:すべての実体は他の実体によって取り囲まれ、間隙はない。何も含まない空間はない。すべては実体によって満たされている。
(実体:事物の性質を担うもの)

 アリストテレスは変化が起こることは自明なことだと考え、そこから何が得られるかを考察した。だから、変化が起こる時の矛盾を避けるために可能的な性質が存在しなければならないと考えた。アリストテレスは実体が私たちの周辺にある常識的なものだと述べたが、実体という概念は現実態と可能態を統合するものとして、常識的なものではない。実体概念は変化の問題を解決するために導入されている。それと同様の工夫をゼノンの二分法のパラドクスを例に見てみよう。

A. 走者がある距離の最終点に到達するなら、その中間の点を通らなければならない。
B. 走者が中間点を通るなら、その中間点のさらに中間点を通らなければならない。
C. だから、走者が最終点に到達するなら、走者は無限に多くの点を通過しなければならない。
D. だが、無限に多くの点を通過することは不可能である。
E. それゆえ、走者はその距離の最終点に到達することはできない。

 ゼノンの結論が誤っていることが問題なのではなく、その結論がなぜ誤っているかについての一致した見解がないことが問題なのである。アリストテレスによる標準的な対処法は無限の存在を否定することだった。彼は変化の問題を可能態と現実態の区別で回避したが、同じように無限の問題もその存在を否定することで回避した。(変化は明らかに存在するが、無限は存在しないという形で回避した。)実無限はない。だから、パラドクスもない。だが、可無限はある。(以後の無限の扱いを注意して調べてみよう。)
 このアリストテレスの対処法はますますゼノンのパラドクスを謎深いものにする。一と多の問題は、一つのものであり、かつ多くのものであることは矛盾している、という問題である。最初の答えは、ある点で一つのものであり、他の点で多のものであるというものである。この単純な答えは問題を掘り下げただけである。一つのものが多くの点を含み、なお一つであるのはどのようにしてなのか。ゼノンのパラドクスは一と多の問題の例示と解釈できる。多くのものが一つに統合されるなら、そこには関係が働いている。
 実在的な関係を受け入れることは一と多の問題を関係の構造についての問題と見ることであり、ゼノンの多数性についての追求の意味を明らかにしてくれる。彼のパラドクスが一と多の緊張を顕にする方法なら、関係についての新しい実在論につながっている。そこで空間的、時間的関係についての理論が重要となってくる。

(問)原子論とアリストテレス形而上学を比較し、変化の扱いの違いを述べよ。