生命の変化(8)

8進化の結果
 なぜ有機体が見事に適応しているのかを説明するように求められたら、ランダムな自然の過程の結果だという仮説より、予めデザインされたものだというデザイン仮説の方がはるかにもっともらしい。そこで、デザイン仮説と自然選択による進化の仮説を比較してみよう。
 ペイリーは適応の完全さを強調した。彼は生き物のすべての細部が最善だと信じていた。これはペイリーに特別なことではなく、彼より一世紀ほど前の哲学者ライプニッツも、すべての可能世界の中で最善の世界が神によって実現される世界だと論じた。だが、ダーウィンは適応が完全であるという考えを否定する。進化論によれば、適応は十分うまくなされているが、完全ではない。自然選択が予測するのは、集団に実際に実現されている形質のうちで適応度のもっとも高いものが一般的になるということである。この結果は考えられる限りの中で最善ではなく、実際に利用可能な変異の中の最善であり、相対的である。
 さまざまな種の有機体が同じ機能を実行するために異なる構造をもっているという事実を考えてみよう。鳥、コウモリ、昆虫の翼はすべて飛ぶためにある。しかし、その「翼」を注意深く見ると、飛ぶこととは無関係なところで多くの違いが見出される。もし翼が知的な設計者によってデザインされたのであれば、これらの無関係な違いを説明することは困難だろう。一方、グループのそれぞれが翼のない先祖から異なる経緯で由来したという仮説を受け入れるなら、これらの違いは簡単に説明できる。
(デザインによる論証は非科学的か)
 デザイン論証は生命形態にデザインが存在することを認めることから出発する。次の文を考えてみよう。

(O) 眼は性質P1、…、Pnをもつ。
(H1) 眼はデザイナーによってつくられた。
(H2) 眼は偶然的過程によってつくられた。
(H3) 眼は自然選択によってつくられた。

デザイン論証はアナロジー帰納法と考えられることがあったが、尤度原理(likelihood principle)を使って的確に表現できる。(H1)、(H2)、(H3)のいずれの仮説が正しいかに関して尤度原理を使うために、それを条件付確率を使って表現しておこう。

観察Oは仮説H2より仮説H1を支持する ⇔ P(O|H1)>P(O|H2)

偶然は既に次のように考えた。あるものが一様な偶然的過程の結果であるとは、多くの同程度に起こりやすい(equiprobable)ものの一つということである。「ランダム」はこのような一様な偶然的過程を表現するのに使われてきた。既述のように自然選択による進化の過程は一様な偶然過程ではない。自然選択の働く過程は、偶然による個体の新しい形質の出現、その形質の選択という2段階になっている。それらは等確率の過程ではなく、したがって、偶然的な過程ではない。それゆえ、一様な偶然過程の否定はデザインの存在だけではなく、自然選択の過程の存在でもある。進化論では選択効果が対象として研究される。自然選択、浮動はそれぞれ異なる意味で選択効果である。だが、これらは観測による選択効果ではなく、自然の中で起こる選択効果である。
 適応のデザイン論証は、適応がデザインされているという観察から始まる。デザイナーがいなければ、眼はあり得なかった、と考える。また、偶然よりは選択があったほうが眼の存在を支持するだろう。すると、次のような関係が予想できるだろう。

P(O|H1) > P(O|H2)
P(O|H1) > P(O|H3)
P(O|H3) > P(O|H2)

どのような観察もデザインの存在や偶然を直接に支持しないが、選択の証拠として採用される観察は既に見たように数多く存在する。したがって、観察結果から考えた場合、H1やH2を支持する経験的な結果がないのに対し、H3を支持するものは多数あることになる。これは経験的事実を重視する立場からはH3が採用されなければならないことを示している。但し、選択以外の進化要因の結果かどうかに関しては別に考えなければならない。
反証可能性
 では、科学的な仮説は十分にテストできるのだろうか。テスト可能性はポパーの見解に訴えることでしばしば展開されてきた。彼は科学的言明の道標として反証可能性を主張した。ポパー反証可能性の基準は観察言明と呼ばれる言明の特別のクラスを選ぶことができなければならない。そして言明は、観察言明に特定の仕方で関係している場合に反証可能であると言われる。

言明Pは反証可能である ⇔ Pが少なくとも一つの観察言明Oを演繹的に含意する。

反証可能な言明は観察できるものについて予測できる。これは、言明Pと観察報告Oの間に演繹的な含意関係が存在することから得られる。
 ポパーの提案の問題は観察言明と他の言明の間の区別が必要である点にある。では、この区別はどのようになされるのか。「ニワトリが死んだ」という言明を確認するために、ニワトリとは何で、死とは何かを知っていなければならない。これはしばしば「観察は理論を背後にもっている(theory laden)」と表現されてきた。人が観察からつくる主張はみな、それを正当化するために既にもっている知識や情報に依存しなければならない。
 この問題に対してポパーは何が観察言明かは約定の問題だと言う。しかし、この解決の仕方では言明が反証可能かどうか問題になる場合に困ってしまう。もし誰かが「神はこの宇宙の創造主である」が観察言明であるという約定を採用するなら、有神論は反証可能なものになってしまう。ポパーの基準が実質的に効力をもつためには、観察言明をそうでないものから区別する、任意でない方法がなければならない。しかし、現在までそのような基準は誰も見つけていない。
 反証可能性の基準の問題はさらに深まる。まず、ある言明Sが反証可能であるとしてみよう。すると、Sと他の言明Nの連言も反証可能である。これはポパーの提案には厄介なことである。というのも、彼はそもそも真に科学的な命題Sから非科学的な言明Nを区別するために提案したはずだからである。多分、もしNが科学的に考慮に値しないなら、S&Nも考慮に値しないだろう。反証可能性の基準はこの当たり前の要請を満たしていない。
 別の問題は、彼の提案が命題のその否定に対する関係について奇妙な含意関係をもっている点である。「すべてのAはBである」という形の言明を考えよう。ポパーはこの言明は反証可能であると判定する。BでないAを一つ観察することによってこの言明は反証されると考えたからである。では、一般言明の否定を考えたらどうか。「Aであり、Bでない対象が存在する」がそのような言明である。この言明は反証可能ではない。どのような単一のあるいは有限の対象であっても、この存在言明を反証することはできない。したがって、普遍的な言明は反証可能だが、存在的な言明はそうではないことになる。これは奇妙な結論である。通常、ある言明が科学的なら、その否定も科学的である。したがって、これは反証可能性が科学的であることの基準としては相応しくないことを示唆している。
 さらに問題がある。科学の大抵の理論的言明は観察によって確かめることができるものについての予測をしないということである。理論は補助的な仮定と結びついたときだけテスト可能な予測をする。理論Tは観察言明Oを演繹的に含意しない。むしろ、Oを含意するのはTと補助的な仮定の連言である。この考えはしばしばデュエムのテーゼと呼ばれてきた。
 最後の問題は科学における確率言明が反証不可能であることになってしまう点である。「コインが公平である」という言明を考えてみよう。つまり、「裏あるいは表の出る確率が0.5である」という言明である。この言明からコインの観察可能な振舞いについて何が演繹できるだろうか。10回コインを投げたなら、正確に5回表と裏がそれぞれ出なければならないことが演繹できるだろうか。答はノーである。コインが公平であるという仮説はあらゆる可能な結果と両立可能である。表が0回から10回までの結果のどれとも両立可能である。ポパーの意味では確率言明は反証することができない。
(目的論の自然化)
 生物学者はさまざまに工夫を施された機能について語る。心臓の機能は血液を送り出すポンプであるというのもその一例である。これは何を意味しているのか。心臓は血液を送り出す以外に心音を発したり、胸の一部に場所を占めたりしている。なぜ心臓の機能は音を出したり場所を占めたりではなく、血液を送り出すことなのか。機能についての主張を理解するために心臓のような工夫がもつ結果について明らかにしてみよう。
 機能という概念は人工のものに適用した場合には明らかである。ナイフの機能を聞かれても何の問題もないだろう。ナイフがどのような意図でつくられ、使われるかは明らかだからである。
 では、人間がつくったものでない対象に機能という概念を適用することは何を意味しているのか。もし有機体が知的なデザインの結果であれば、その心臓の機能はナイフの場合と同じように理解することができる。心臓を与えた神の意図について語ることが心臓の機能について語ることになろう。しかし、もし私たちがこの生命世界について純粋に自然主義的な説明を与えたいと思うなら、どのように機能を考えたらよいのだろうか。
 アリストテレスの物理学は目的論に満ちていた。彼は星が目的に導かれたシステムであることを信じていた。内的な目的が重いものを地球の中心に向かって引きつける。重いものは自らの機能をもっている。だが、ニュートン力学は流星が何の機能ももっていないと考えることを可能にした。それが機能をもっているように振る舞うのは科学法則に従うからである。
 ダーウィンは科学的な唯物論についてはニュートンと同じ考えだったが、目的論的な考えについては異なっていた。目的論を生物学から追放するよりは、それを自然主義的な枠組の中で理解することができると考えた。つまり、彼は目的や機能を自然選択の結果として説明しようとした。その結果、進化論は対象に機能を付与するのに人間中心主義を必要としなくなった。
ある形質が「適応」であると言うとき、それは現在の有用性に言及していない。それはその歴史に言及している。哺乳類の心臓が血液を循環させるための適応であると言うのは、哺乳類の先祖が心臓をもつことで適応度を上げたために現在心臓をもっていると言うことである。心臓をもつための選択があったゆえに心臓が選択された。そして、心臓は血液を循環させるゆえに選択された。心臓は音を出すが、音を出すための適応ではない。 心臓は音を出すゆえに進化したのではない。むしろ、音を出すという性質は副産物として進化した。音を出すことの選択はあったが、音を出すための選択はなかった。より一般的に、次のように適応概念を定義できる。

特徴cは集団において仕事tをするための適応である

特徴cをもつための選択が祖先に存在し、それが仕事tを実行することによって祖先の適応度を高めたゆえに、集団のメンバーが現在特徴cをもっている。

 それが進化した理由でなくとも、ある仕事tを実行するゆえに有用であるような形質は存在する。ウミガメは産卵後前足で穴を掘り卵を埋める。この点で前足は有用である。しかし、ウミガメの前足は穴を掘るための適応ではない。ウミガメには彼らが砂浜に産卵するはるか以前から前足があったからである。
 逆に、適応が今では有用性を失ってしまった場合もある。ある系統で翼が飛翔に有用であるゆえに進化したとしてみよう。これは翼が飛ぶための適応であることを意味している。そこで環境が変化し、飛ぶことがかえって危険であるようになるなら、翼は適応であるが、飛ぶことは有機体の適応度を下げることになる。
 適応と適応的(adaptive)は異なる概念である。ある形質が現在有利さをもっていれば、それは今適応的である。ある形質が過去にあった選択の結果であるゆえに現在存在するなら、その形質は現在適応である。二つの概念は形質の経歴の異なる段階を述べている。ある形質が現在適応的でなくとも、適応であることは可能である。また、ある形質が現在適応でなくとも、適応的であることが可能である。適応は歴史的概念であり、現在の有用性と同じではない。
 適応という概念のなかでも区別が必要である。「適応」は過程の名前でもあり得るし、また所産の名前でもあり得る。翼の進化は適応の過程を含んでいる。その過程の結果としての翼は所産である。適応の過程に関しては個体発生的な適応と系統発生的な適応を区別しなければならない。学習できる有機体はその環境に適応することができる。それは自らの行動を変える。この変化は有機体の一生の間で起こる。進化論で議論される適応の過程はこのような個体発生的なものではなく、系統発生的な適応である。
 ここまでは「機能」という概念についてどう理解すべきか何も言ってこなかった。これについての哲学者の意見は二つに分かれる。ライト(Larry Wright)のように、今まで適応について述べてきたのと同じように生物学的な機能を扱うのが一つのグループである。ある装置が機能をもっていると言うのは、それが現存する理由について述べることである。人工的なものがある機能をもつと言うとき、私たちはなぜその人工物がつくられ、使われているかを述べている。これが機能の起源論的見解(etiological view of function)である。機能を付与することは起源についての仮説をつくることである。
 別のグループは機能と適応を同じように見ることに反対する。例えば、カミンズ(Robert Cummins)は、ある装置に機能を付与することはその装置がなぜ現存するかについての主張ではないと考える。ウミガメの前足の機能は穴を掘ることであり、それが前足をもつことの理由でなくとも構わない。カミンズにとっては、前足は有機体の能力に寄与するゆえにその機能をもっている。
 起源論的な見解に反対する一つの理由は、過去の生物学者が進化論など知らずに、それとは無関係にさまざまな器官に機能を巧みに付与してきたことである。17世紀のハーヴェイ(William Harvey, 1578-1657)は心臓の機能は血液を循環させることであると知っていた。ハーヴェイは心臓が何をするかについて主張していたのであり、私たちがなぜ心臓をもつかについて主張していたのではないというのが反対派の考えである。起源論への別の批判は、それが奇妙な結論を導くというものである。肥満ゆえに運動しない人を考えてみよう。運動をしないゆえに太り過ぎは解消されない。ここで、彼の肥満の機能は運動防止であるというのは奇妙である。これはある形質が現存する理由についての説明が機能についての説明と同じと考えることが誤りであることを示している。
 他方、カミンズの理論は機能をもつことに寛容過ぎることで批判されている。心臓は重さをもっている。しかし、心臓のもつ重さがその機能であるというのはおかしい。機能と単なる効果の区別がカミンズの理論には欠けている点が問題となる。もし、ある器官を全体として考え、その効果を扱うことになると、その器官のもつすべての効果がその機能と考えられてしまうのである。
 機能という概念が何を意味しているかの哲学的説明の基本的な特徴は、それらが自然主義的であることである。さまざまな説はみなその主張が異なるとはいえ、機能の説明は現在の生物学と両立可能である点で一致している。目的志向型のシステムが生物学的でない、自然の中の事柄以上のものを含んでいるということを一切要求していない。