生命の変化(7)

7適応の分析:性の場合
 今では誰も生殖の機構について知っている。体細胞分裂減数分裂(meiosis,mitosis)と呼ばれる二種類の細胞分裂の解明は細胞学と遺伝学の共同作業の結果だった。減数分裂と性染色体の役割から、性決定のメカニズム、性比の割合等が容易に説明できる。その説明は経験的な裏付けのある信頼できるものとして生物学の教科書で周知のものになっている。

(問)オスとメスの性比が1:1であること(オスとメスが同数であること)の性染色体を使った通常の説明を述べよ。

性染色体を使った性比の説明の特徴は「How」型の説明と言われる。どのように性が決定されるかのメカニズムとその経緯が遺伝子の組み合わせをもとに(数学的に)説明できる。減数分裂の仕組みをもち、性染色体が存在すれば種を問わず同じような説明ができる。では、性をもたない生物の生殖はどのようなものなのか。どのようにして生殖のメカニズムが獲得されたのか。性の存在は生物の存在とどのように結びついているのか。このような問いに対する答えを上述の性染色体のメカニズムから得ようとしても無理である。特に、なぜ性が存在するようになったか問われた場合、上のような説明は全く無力になってしまう(なぜか)。そして、この問いの形は「How」ではなく、「Why」の形をしている。
 性の機構について、過去の生物は、未来の生物は、地球外の生物は、と問い始めてみると、答えはあやふやになっていく。生物の過去を探り、性のメカニズムがどのように進化したか知りたくなる。これはれっきとした歴史的な探求であり、なぜそのようなメカニズムが進化したかの由来を探ることである。つまり、これは起源の探求ということである。これが進化論で「Why」という問いに答えることである。この型の問いは理由を求めているが、それに「遠い原因」を使って答えようとするのが進化論である。理由と原因を同じものと考えることは、起源、由来を考えることが基本的な原理を考えることであり、原初的なものが原理的なものであると考えることである。物理的な見方と生物的な見方の違いのひとつが、起源、歴史、機能といった諸概念の進化論における役割によって明らかになる。これを性に関する次の三つの問を例にして考えてみよう。

なぜ性を使って生殖するか(性の存在)。
なぜ性は異なるか(性の違い)。
なぜ性比は1:1なのか(性比)。

(性選択)
 ダーウィンは、自然選択説ではクジャクの尾のようなオスの形質が説明できないことを知っていた。そのような性質は生存に有利ではないからである。彼はそれを自然選択ではなく、性選択(sexual selection)で説明しようとした。彼は性選択でメスを獲得するためのオス同士の争いとメスによるオスの選別(choice)を区別した。しかし、彼はなぜオスは争い、メスは選別するのかを説明できなかった(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex、1871)。
 自然選択については、ダーウィン以前にも多くの人が思いついていたが、性選択は誰も考えていなかった。ダーウィンは生存の差より生殖の差が進化には重要であると考えていた。生殖では性選択が重要な役割を演じる。そして、彼は「有機体が同じ性の他の有機体に対して生殖に関してだけもつ有利さ」によって性選択が起こると考えた。性選択の対象は文字通り敵の脳や身体であり、それは相手の心理に直接に結びついている。性選択はこの意味で人為選択に似ている。互いに相手を出し抜かなければならない。ダーウィンは性選択におけるメスの選別に重要さを認めたが、当時はオスの争いが強調されて、メスの役割は無視されていた。
 フィッシャーは性選択の重要性を認識していた数少ない研究者である。彼の仮説とそれとは異なる仮説を以下に述べておこう。
(性選択の二つの仮説)
フィッシャーの暴走理論(Runaway Theory)
 クジャクの長い尾の進化には三つの段階がある。最初の段階では長い尾は生存上の有利さしかもたない。第二段階で、生存上の有利さに交配の有利さが加わる。メスの選り好みが大きくなり、尾の長さが生存に最適な範囲を超えると、二つの有利さの相対的な重要性が逆転するまで、さらに尾が長くなることがメスの選り好みのせいだけで進化するのが第三段階である。オスの尾の長さの進化と尾の長いオスへのメスの好みは互いに他を強化し合うことになる。これが暴走過程である。最終的な均衡状態でのオスの特徴のコストはメスには何の機能も持たない。むしろ、それはメスの選り好みによって維持されるが、最初の有用な過程の結果としては無用な最終産物である。

ザハビの障害理論(Handicap Theory)
 ザハビ(Zahavi、1975)は障害原理(handicap principle)を提唱して論争を起こすことになった。その原理は、多くの性的な装飾物はコストのかかるものだが、それによって遺伝的な質の表示がなされると主張する。健康で質の高い形質が余計に見える装飾物によって保証されていると考えるのである。あるオスが他のオスより良い(適応度の高い)遺伝子をもっているとしてみよう。メスが任意に交配し、半分のオスが良い遺伝子を、他の半分は悪い遺伝子をもっていると、50%の交配相手が良い遺伝子を、他の50%は悪い遺伝子をもっていることになる。良い遺伝子をもつオスだけが障害をもって生存できるなら、障害をもつオスと好んで交配するメスは良い遺伝子をもつオスとだけ交配することになるだろう。障害のコストより良い遺伝子が有利であれば、メスの選別は選択上有利になる。モラー(Moller)は長い尾をもつツバメがメスに好まれることから、尾の長さはオスにはコストがかかるが、それがオスの健康であることの指標になっていることを実証的に示した。オスの健康であることは遺伝し、子孫に伝えられる。
 フィッシャーの理論では暴走過程の最終産物としてオスのコストは高くなる。ザハビの理論ではオスの形質は最初からコストがかかる。フィッシャーの理論ではオスの形質が遺伝可能な変異をもつことが必要だが、ザハビの理論では適応度の遺伝可能な変異が必要である。

(問)二つの仮説を比較し、それぞれのシナリオを比較せよ。

(「なぜ」と「いかに」が求めるもの)
 問いの形はしばしば理論の本性だけでなく、世界観にさえ大きな影響を与える。例えば、熱力学は現象的な理論であると言われるが、その理由は熱力学が「いかに」という現象に関する問いには答えるが、「なぜ」という理由には答えないからである。一方、進化論が説明理論と言われるのは、「なぜ」という問いに答えることができるからである。機械論的な世界観は「なぜ」ではなく「いかに」に答えるメカニズムに基づくものであるが、目的論的世界観は「なぜ」を目標に読み替えることによって世界を解釈している。これらだけでも問いの形が私たちの理解の仕方を大きく左右していることがわかる。忘れてならない「何」という問いは哲学では典型的な問いの形式になっている。「生命とは何か」、「知識とは何か」はその代表的なものである。
 では、二つの問いの形、「なぜ」と「いかに」はどのような関係をもっているのだろうか。異なる理論解釈や世界観を生み出す重要な契機になっているのであるから、二つの問いの型の間には本質的な違いがあると考えたくなる。実際、「なぜ」と「いかに」は答の型だけでなく、それら問いの発せられる環境も全く異なっているようにみえる。異なる文脈に二つの問いは存在し、したがって、それらに対する答も触れ合うことがないようにみえる。例えば、進化論は意識が「なぜ」進化したかの説明は与えるが、「いかに」進化したかは説明しないと言われている。
 ここではこの常識的な見解について考え直してみよう。「なぜ」と「いかに」がなぜ異なるのか、そしていかに異なるのかは十分な説明が与えられているようには思われない。「なぜ」と「いかに」がどのような関係になっているか調べることによって、二つの問いの意味するところは程度の差に過ぎない面を多くもっているという結論を導き出してみよう。
 二つの問い「なぜ」と「いかに」の関係をフィッシャーの性比を例に考えてみよう。彼の性比の説明は「なぜ」に答えているのか、それとも「いかに」に答えているのか。通常、彼の説明は「なぜ」の答であると考えられている。しかし、答えの僅かな変更によって「いかに」の答にもなり得る。彼の説明に細かな条件を加えることによって構造的なモデルから時間発展のモデルに変更できるからである。それは彼の説明の仕方を構造的なモデルと見るか、より具体的なシミュレーションと見るかの違いでもある。構造的モデルと見れば「なぜ」に答えるものとなり、シミュレーションと見れば「いかに」に答えるものとなる。
 原因は「なぜ」の答えになると述べた。この原因に時間発展の記述が加わると、「いかに」の記述が得られる。では、「なぜ」と「いかに」の説明の区別はこれだけの違いなのか。遠い、近いが程度の差であるように、「なぜ;遠い原因」と「いかに;近くの原因」の説明の間に本質的な違いは存在しない。
 実験レベルでは「なぜ」も「いかに」も共にないと実験そのものが遂行できない。この実験による検証の比較を一般化すると、「なぜ」の追求と「いかに」の追求の特徴が出てくる。「なぜ」の実験は遡及的に組まれ、「いかに」の実験は後続系列の指定という特徴をもっているが、その一般化は次のようになるだろう。「なぜ」は遡及的に問いかける系列として、次第に系列の項目がマクロ化していく。「いかに」は機能連関の因果的な展開の系列として、次第に系列の項目がミクロ化していく。このことは空間、時間のいずれに関しても成立する。確かに、私たちは自然主義的追求において「なぜ」は歴史的な遡及であり、「いかに」は機能の周期的な連関であると言う。それは一見自然な分類にみえても、歴史と周期の常識的な違いに依存しているだけである。
 歴史と起原が「なぜ」の一つの自然主義的解答であり、原子論とプログラムやメカニズムが「いかに」の別の自然主義の解答であるというのが二つの問いの違いである。この主張が出発点であった。確かに、このように特徴づければ、二つの問いの違いは明らかになるだろう。この特徴づけは、しかし、二つの問いの違いを大幅に減じるものである。それは氏と育ちの例を考えればよい。「なぜ」は氏によって説明し、「いかに」は育ちによって説明する。この分業は自然にみえる。遠い原因としての氏と、近い原因としての育ちという分業である。この分業の妥当性はどうも伝統だけに頼ってきたように思えてならない。歴史とプログラム、起原と原子論といった組み合わせは水と油の関係のように考えられてきた。だが、これらの組み合わせは矛盾する、両立し難い組み合わせではなく、むしろ極めて自然で、興味深い組み合わせであるように思われる。

(問)「なぜ」と「いかに」の問いの違いをまとめよ。