変化の経験-科学における経験と実在(6)

5意味と観察の問題
(経験論者にとってなぜ観察は重要なのか)
 経験論は世界についての知識は経験や観察によってのみ獲得できると主張する。私たちが既に見てきたように、この主張が観察でわかるものを超えるように見える知識を疑うという結果をもたらしてきた。そして、このことが理由となって経験論者は科学理論について反実在論の立場を取ることになった。経験論者の基本的な認識論的主張は次のように述べることができる。

科学が観察できるものを超えた事柄についての主張であるならば、それら主張は正当化することが不可能である。

 経験論者は観察できるものについては正当化に関する認識論的問題はないと思っている。観察できるものについては私たちが見ることによって、その主張が正しいかどうかわかる。だから、観察言語は私たちが直接わかる事態を記述するので、言明が真か偽かは観察することによって判定できると考える。
 この特徴は観察言語が理論負荷的であるという認識によって損なわれることはない。科学にとって重要なのは「すばやく真偽が決定できる言明」であり、その言明が理論負荷的かどうかに関わりなく、真偽が観察によって直接的に確認できることである。自明な点として、この決定過程では私たちが問題の言明が何を意味しているか知っている必要がある。それを知らなければ、それが真かどうか決定できない。
 だが、この点は本当に自明だろうか。自明なのは意味が静的で予め固定されていると考えることができる場合だけである。これが正しいなら、使っている単語の意味を知ることによって、科学の真の仕事をすることができる。つまり、どの言明が真で、どれが偽かを決定できる。だが、このようなことは可能なのだろうか。
(経験論の二つのドグマ)
 クワイン(Willard Van Orman Quine, 1908-2000)の「経験論の二つのドグマ」は20世紀にもっとも影響が大きかった論文の一つである。それが重要であるのは次の二つの理由からである。

・ この論文は知識と意味に対する観察の役割についての経験論者の基礎付け主義的考えへの批判であり、その批判は経験論の主要な説に問題を投げかけている。
・ これはポスト経験論的見解の始まりである。(今までの経験論が失敗であることがわかったとき、哲学の問題への対応は二つある。よりよい解決を探すか、問題自体が偽物だと考えるかである。クワインは後者の態度を取り、科学に関するそれまでの実在論反実在論の論争が誤りであると考える。)

彼が経験論のドグマと呼ぶのは次の二つのことである。

・ 分析的-総合的の区別:ある言明が分析的に真であるのは、その言明に含まれる語の意味によってその言明が真である場合である。分析的でない真理は総合的である。経験論者はすべての総合的真理はアポステリオリだと主張する。つまり、総合的真理は観察によって生まれる。それゆえ、経験論者は総合的でアプリオリな真理があるというカントの考えを否定する。
・ 検証原理:「言明の意味はその検証の仕方である。」これは概略次のことを意味している。それぞれの有意味な言明は可能な観察のクラスに結びついている。つまり、それが験証されたと見なされる状況に結びついている。(分析的言明はすべての可能な観察に結びついている。つまり、どんな状況でも真である。)

 クワインは経験論がもつ二つのドグマの両方を拒絶する。彼の見解を見定めるよい方法は実際の科学の記述として正統的な経験論的見解が相応しくないことを明らかにすることである。そこで、動物学の例を考えてみよう。
 ある言明が真か偽かを知ることができる前にその言明が何を意味しているのか知らなければならない。経験論によれば、言明が何を意味しているか知ることは、それが真、そして偽であることを示すそれぞれの観察が何かを知ることである。だが、実際の科学はこのようにはなっていないし、それは不可能である。というのも、あらかじめあらゆる観察結果を想像することはできないからである。例えば、18世紀の動物学者はリンネがつくった生物の分類を知っていて、哺乳類は温血の脊椎動物だということがわかっていた。下の言明が真かどうかについてどのように考えたらよいだろうか。

哺乳類は胎生である。
哺乳類は卵生ではない。

カモノハシ(卵生の哺乳類)を見る前なら、これらの言明は分析的に真だと思うだろう。つまり、それらは哺乳類の定義の一部と考えるだろう。そうなら、カモノハシは哺乳類ではないと結論しなければならない。だが、18世紀の動物学者はそのようには言わない。カモノハシが偽物でないことを確信すれば、本物の哺乳類と決めるだろう。これは上の分析的に見える言明が総合的だけでなく、実際に偽であることも可能なことを意味している。実際、彼らはカモノハシが捏造のものでないと確信すると、それは哺乳類だと決めた。だから、見かけが分析的な言明は総合的だけでなく、実際に誤りだった。
 これから私たちは何を学べるのか。この出来事の前には、誰もこれらの言明が偽だという可能性をまじめには考えなかったろう。胎生は哺乳類であることの定義性質の一つだと考えられていた。だから、「哺乳類は卵生ではない」は観察によって決定可能な言明とは考えられていなかった。その場合でも、「ある哺乳類は卵生である」ことが観察された、あるいは発見されたと言うことができる。これはどのように可能なのか。「哺乳類」はその意味を変えたのだろうか。あるいは単に私たちはそれが何を意味したかについて誤っていたのか。この他にも幾つか疑問がある。哺乳類であることの性質は、その性質をもたないなら哺乳類ではあり得ないと言う意味で、本質的あるいは定義上のものなのか。総合的でアポステリオリに見えるもの(つまり、観察で決められるもの)の中で分析的とみなされるものがあるのだろうか。
 哺乳類についての言明で現在真だと受け入れられているものを挙げてみよう。

Xは通常は胎生である
Xは授乳する
Xは腎臓をもつ
Xは通常毛がある
Xは温血である
Xは主に地上生活である
Xは両半球に見られる

伝統的な見解によれば、これら言明の幾つかは分析的に真で、それゆえ、未来の観察によっては影響を受けないだろう。他の言明は総合的で、今までになされた観察がそれらを支持するゆえに真である。(どれが分析的で、どれが総合的か。下線を引いたものはすべて総合的か。下線のないものはすべて分析的か。)伝統的見解では下線のあるものだけが新しい証拠のもとに変更可能であり、事実の真理(下線のあるもの)を分析的なものから区別する。
 しかし、哺乳類についてのこれらの言明は本当に安全な分析的真理だろうか。いずれかを合理的にそうでないとするような環境を想像できないだろうか。クワインはこれらの問題をクモの巣(web)の比喩を使って述べる。巣の結節点は個々の概念(例えば、哺乳類、温血等)に対応し、結合はそれら概念を結びつける信念に対応している。(例えば、「すべての哺乳類は温血である」)伝統的な見解ではこれらの結合には二種類ある。意味付与的(分析的)結合と事実的(総合的)結合である。後者だけが自らを新しい環境に適合させなければならない場合にクモの巣を再配置できる。
 クワインの見解は二つの種類の結合に明確な区別はない、あってもせいぜい程度の問題に過ぎないというものである。原理上、どんな結合も壊れる可能性がある。さらに、クワインは原理的に私たちは常に自ら選択をすると考える。選択の度に変更が可能となる。
カモノハシの場合、動物学はどのような選択をしたのだろうか。カモノハシの場合はそれが如何に難しいかを示してくれる。新しい観察データが既存の概念枠の改訂を迫るが、どのように改訂するかに選択の余地がある。最も困難な場合、それは単に用語上のことだと言いたくなる。意味と事実の場合に分けたくなる。だが、このような区別はできるだろうか。クワインが示唆するように、できないとすれば、すべての予期せぬ観察は選択の余地のあるものとなるだろう。私たちは与えられた結合を保存するように、あるいはしないように選んで、与えられた言明を真か偽と見ることができる。カモノハシの場合は、定義的な結合(哺乳類は卵生ではない)に見えたものが壊れる場合である。

(問)本文の例以外の例を探し、それについて同様の考察をしてみよ。

(ここまでの帰結)
 以上の例を一般化し、まとめるなら、次のような結論が得られるだろう。

1意味の変化を許さなければ、私たちは科学についての正しい理解ができないだろう。
2少なくとも幾つかの場合には、言明はその身分を変えることができる。「分析的」から「総合的」へ、あるいはその逆へ変わることができる。
3(その真理値をはっきり定めることができるという意味で)すぐに決定可能な言明はない。実験結果が何であれ、どこかで適切な調整をすることが準備できれば、与えられた言明を真や偽とみなすことが常に可能だろう。すると、経験論者の基礎は消失してしまう。経験論者が当たり前とした仕方では観察は何も決定できない。

 このような結論は全体論を受け入れることから出てくる。全体論ではすべての関わりは他の関わりに結びついているので、どんな関わりも実験に対してそれだけでは対処できないという見解である。マッハは観察を予測する点で同等な理論が存在することを述べ、これを理論の実在論的見解に反対する論証とみなしていた。クワインが正しければ、同じ点は観察レベルにも適用できる。だから、理論についての実在論に反対する論証が信頼できれば、全体的な反実在論のための論証も信頼できるだろう。
 クワインの見解は反実在論者に反対するように見える。では、実在論に賛成するのだろうか。ある言明が真であるか偽であるかが選択の問題だということを許す見解について、そこに実在論者を満足させるものがどれだけあるだろうか。クワインの見解は実在論反実在論の伝統的論証については両陣営が誤りというものだろう。両陣営は哲学が科学の外に立つことができるということを仮定し、観察を超えた実在について話している。クワインの見解では、科学の外からの見解などない。この反外在主義はポスト経験論を考える際の鍵となるだろう。
 実在論反実在論に関する論争のポスト経験論的見解の代表はカルナップとクワインである。科学的知識が客観的な正当化と事物の本性を明らかにすることであるという見解は、科学が現象と実在を区別するという考えを含んでいる。ガリレオやロックの第一性質と第二性質の区別はその例であり、問題は次のようなものだった。

・ 問題:知識は経験的に基礎付けられるという経験論の主張が正しいなら、すべての科学的知識は私たちが現象を把握できることに基づいている。そして、現象を超えた実在についての知識を生み出すどんな試みも疑いがあるように見える。だから、認識論的客観性と形而上学的客観性は衝突する。これを経験論の伝統の中で見てきた。
・ この問題の一変形:言語についての考えがより洗練されると、経験論者は知識と同じように意味も経験に根ざさなければならないと信じるようになった。だから、形而上学的主張として解釈された科学は正当化できないだけでなく、無意味であるように見えた。
・ 理論と観察の区別をしようとするとうまくできず、それが反実在論の主張を困難にしていた。だが、反実在論が正しくないなら、それはどこが誤っていたのか。経験論自体が誤りなのか。

(カルナップ: 「経験論、意味論、存在論("Empiricism, Semantics and Ontology")」 )
 カルナップはこの問題に答えようとする。彼は経験論自体が誤りだとは考えず、自分の答えが経験論と両立すると考える。カルナップの論文の鍵となる点は、第一に抽象的対象の問題である。科学に登場する「抽象的対象」とは何か。なぜそれらが問題なのか。抽象的対象についての古い哲学的問題に、実在論唯名論プラトン主義対経験論がある。カルナップの計画は経験論者でも認めることのできる抽象的対象の定め方を見出すことだった。つまり、プラトン主義に頼らずに抽象的対象を認める方法を見出すことだった。
 二番目の問題は対象の枠組である。彼は枠組の中で出てくる内部問題と枠組の外から出てくる外部問題の間の区別をすることが必要だと考える。
例:(i) 「事物の世界」とは何か。世界の中でどのような種類の問いが出せるのか。実在の内的概念、つまり、経験的で科学的な、形而上学的でない概念はどのようなものか。哲学者の事物の世界自体についての外的問いは、カルナップによれば誤った仕方で枠組付けられているので解けないことになる。(ii) 数のシステムとは何か。カルナップは「数が実在するか」と尋ねる外的な形而上学的見地を拒絶する。
 カルナップは上の枠組を受け入れるかどうかの決定が理論的よりは実践的なものであることを強調し、論理実証主義反実在論に近いと考える。クワインはカルナップの考えには懐疑的である。クワインはカルナップの言語的枠組という考えは分析的・総合的の区別に余りに頼り過ぎていると考えた。だが、この表面的な不一致よりは基本的な一致のほうが重要である。クワインはカルナップの外在的形而上学的見地の拒否に賛成する。

(問)クワインとカルナップの共通点と相違点を挙げよ。

*所与の神話
 セラーズ(Wilfred Sellars, 1912-1989)の「所与の神話(The Myth of the Given)」について考えてみよう。基本的な経験論のイメージはどのようなものか。外の世界の本性についての証拠としての感覚は確かである。だから、感覚経験の内容は実在についての私たちのすべての知識に対して疑いのない基礎を与えてくれる。この素朴な経験論の考えについての批判は実に多い。既にこの章で述べたことから、次のような批判ができる。

(i)現象主義への反対は、知識とその対象の間のギャップを廃止すれば、もはやそれを知識とは呼ぶことができないということである。知識は一つのものが他のものを表象する、照合するという考えに依拠している。これは知識が経験論者が望むような基礎をもつという考えに対する挑戦である。
(ii) ハンソンは見ることについて、その最も基本的な場合でも生の感覚データが単に生じることではないと主張した。見ることは既に言語的である。

 セラーズも類似の考えを展開する。そこにはカント的な背景がある。カントは次のように言う。「内容なしの思考は空虚であり、概念なしの直観は盲目である。」「直観」によってカントが意味するのは私たちの感覚によって私たちに与えられるものである。これが「所与」と呼ばれるものである。所与は私たちが推論によって生み出したものではなく、端的に私たちに与えられるものである。カントが言うには、概念による組織化なしにはこの生のデータは盲目である。つまり、それは知識ではない。セラーズはこのカントの要点を展開し、それは経験論の基本的欠点を明らかにすると論じる。経験論は所与のものを自明と考える。だが、それは神話であると彼は言う。
(所与の神話の限界)
 所与のものによってなされる二つの仕事について考えよう。

(i) それは外的な条件の信頼できる指標でなければならない。この点で、それは外的変化に因果的に反応するようにつくられた温度計のように振舞わなければならない。
(ii) それは他の信念を推論するための基礎を与えなければならない。それから他の信念が推論されるようなものでなければならない。

この両方の仕事ができるものがあるだろうか。そのようなものはないとセラーズは考える。 経験論者は言う。「知識が基礎をもっていないことに賛成である。この点で経験論は端的に誤りである。にもかかわらず、見ることが知識の基礎を与えることができなくとも、基本的な「見る」がある。つまり、認識論的な重要さをもっていなくとも、「所与」のものがある。」 これにセラーズは反対する。彼は基礎を探すという点で伝統が誤っているのではなく、見ることの現象主義が誤っていると考える。彼は私たちの他の信念に影響されない、基本的な見ることはないと考える。もっとも基本的レベルでも私たちが見ることは私たちが信じることに依存していると考える。