変化の表現形式(6)

4仮説の設定-最善の説明のためのアブダクション
[パースとアブダクション
 推論が演繹と帰納以外のものも含んでいることを最初に主張したのはパース(Charles S. Peirce, 1839-1914)だった。彼はこれを「アブダクション」と呼んだ。アブダクションは最善説明を与える推論(inference to the best explanation)(驚くべき事実を最もよく説明するための推論)である。パースはこの推論形式だけが科学において「最初の推測」や「考える際の仮説」を導入できると考えた。パースの定義を一般化すると、次のアブダクションの定義が得られる。

Dは観察結果のデータの集合である。
HはDを説明する。
他のどのような仮説もHと同じようにはDを説明できない。
それゆえ、Hは多分正しいであろう。

 アブダクションを使った推論の例に医療診断がある。医者は患者の症状を引き起こす原因を幾つか推定する。そして、その中から真の原因を特定する。この診断過程でアブダクションが使われている。科学者がもつ驚きを説明するためにアブダクションが使われるように、私たちの日常生活においてもアブダクションの使用は珍しいものではない。
 アブダクションを使って「心は身体に作用する(MC)」という仮説を考えてみよう。尤度(Likelihood)は、ある仮説がどれだけ信頼できるかではなく、その仮説のもとで観察されるものがどれだけ確からしいかを示すものである。P(A|B)を仮説Bのもとでの観察事実Aの尤度を表すとして見よう。これを使うと次のような推論ができる。

A:喜びや楽しみは行動を活発にする
W1:MC
W2:MCとは別の仮定K

これら三つを尤度という点から見ると、P(A|W1)>>P(A|W2)(W1の仮定のもとにAが起こるほうが、W2の仮定のもとにAが起こるより遥かに見込みが高い)。ゆえに、MCを仮定すると、Aが説明できる。これはMCの仮定のもとでAが起こることの方が、別の仮定Kのもとで起こるより遥かに起こり易いことを示している。
 上の例は尤度原理(Likelihood Principle)を使っていずれの仮定が観察によって支持されるかを決める最善説明のための推論になっている。この結果は、MCが私たちの行為や責任を説明するための最善の仮定として採用できることを示唆している。これがMCを常識的に受け入れている理由である。しかし、これだけではMCが正しいということにはならない。そのためには、

[どんな行為B、どんな仮説Lに対しても、P(B|MC)>>P(B|L)] ⇔ MCは正しい

が必要である。これが困難なことを有名なデザインによる推論で見てみよう。

(O) 眼は精巧である。
(H1) 眼はデザイナーによってつくられた。
(H2) 眼は偶然につくられた。

眼のもつ精巧な構造や機能を観察することから、P(O|H1)>>P(O|H2) であることは明らかである。さらに次の仮説(H3)を考えてみよう。

(H3)眼は自然選択によってつくられた。

自然選択が眼の精巧な構造や機能を十分に説明してくれるなら、(H1) や (H2) より(H3)を仮説として採用するだろう。実際、現在の私たちはそうしている。複数の仮説を比較することで、観察結果からよりよい仮説を選び出している。だが、(H3) が最善の仮説であるかどうかの保証はない。現在手許にある仮説の中での最善しか言うことができない。

*パースのアブダクションについての二つの考え
 パースはアブダクションについて二通りの考えをもっていた。彼の考察が進むに連れて特徴づけが変わることになる。
[三段論法による考え]

この俵の米はみな白い。
この米はこの俵のものである。
それゆえ、この米は白い。

これはBarbaraと呼ばれる三段論法の例である。これを変形した推論を考えてみよう。

この米はこの俵のものである。
この米は白い。
それゆえ、この俵の米はみな白い。

この俵の米はみな白い。
この米は白い。
それゆえ、この米はこの俵のものである。

これら二つの推論は三段論法としては正しくないが、前者が帰納的推論、後者がアブダクションの例となっている。これら演繹的には正しくない推論を含め、パースは推論を次のように分類している。
(推論の分類)
(1)演繹的、あるいは分析的
(2)総合的-帰納、仮説設定(アブダクション
推論は演繹的推論と非演繹的推論の二つに大別され、帰納アブダクションは互いに他の一部と捉えられている。
[推論による考え]
 前の分類をさらに発展させ、推論には演繹的でないものもあることを認め、それを広義の推論のパターンとしてまとめると、次の三つのものが考えられる。
三つの推論の種類:演繹、帰納アブダクション

これらの役割の関係は次のように考えられている。

アブダクションによって仮説を形成し、その仮説から予測を演繹し、帰納的に評価する。

 アブダクションは説明すべき観察から説明する仮説を形成する過程として定義されるが、当て推量に近い推量であり、計算される過程ではない。次の議論はパースのものだが、この議論は何を意味しているだろうか。

驚くべき事実Cが観察される。
Aが真であれば、Cは当たり前のことだろう。
だから、Aが真だと考えられる理由がある。
(Peirce, 1958, 5.188-9, Collected Papers of Charles Sanders Pierce, Harvard Univ. Press.)

Aが真なら、Cは当たり前と言うのは、Aが論理的にCを帰結することと解釈できる。この時、AはCを説明する、あるいはAはCを説明する仮説である。(ここで「Aならば、C」が論理的な含意関係なら、それがなくとも、Cが真であることは最初の前提で明らかである。これは説明が論理的含意そのものではないことを意味している。)驚くべき事実Cが所与なら説明の必要はないが、「驚くべき」ことの解消には説明が必要である。
 驚くべきことがなくなり、すべての事柄が説明できるなら、それを説明する理論は完全だと言える。これが理想的な知識であるというのが古来の考えであり、その具体例が古典物理学ということになる。

ポアンカレの規約主義
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学
 ポアンカレ(Henri Poincaré, 1854-1912) はユークリッド幾何学アプリオリに真であり、それを真にしているのは私たちであると考える。この点ではカントと同じである。しかし、私たちがどのようにユークリッド幾何学を真にしているかという説明はカントと全く異なっている。既述のように、非ユークリッド幾何学の発見は空間の真なる構造はアプリオリに知ることができるというカントの考えを脅かした。ポアンカレ微分方程式で定義される関数の研究において実際に非ユークリッド幾何学を使っていた。また、非ユークリッド幾何学の相対的な無矛盾性も知っていた。ポアンカレによれば、幾何学は世界について何の予測も行なわないので、経験の中には幾何学自体に矛盾するようなものはない。非ユークリッド幾何学ユークリッド幾何学と同じ論理的、数学的な合法性をもっている。すべての幾何学的システムは同等であり、どれか一つが真なる幾何学ということはない。幾何学の公理は総合的でアプリオリな判断でもなければ、分析的な判断でもない。それらは規約、あるいは姿を変えた定義に過ぎない。
 ポアンカレによれば、すべての幾何学は空間の同じ性質を扱うが、それぞれが独自の言語を使っている。異なる言語を使うが、同じ実在についてのものである。というのも、一つの幾何学は別の幾何学に翻訳できるからである。一つの幾何学を選択する基準は経済的な単純さである。通常私たちがユークリッド幾何学を日常世界で使う理由はこれである。だが、時には非ユークリッド幾何学のほうが単純な場合がある。相対性理論はこのような場合の典型である。
[科学理論の規約性]
 ポアンカレ幾何学についての考えは科学理論にも適用できる。すべての科学理論は自らの言語をもち、規約によって選ばれている。だが、予測や事実に関する一致や不一致は実質的なもので、客観的である。科学は客観的妥当性をもつ。科学者が自由に選ぶ言語、公理は規約によるが、その妥当性は客観的な観測によって判定される。科学法則は、したがって、二つの部分に分解される。一つは原理で、これは規約によって真であり、他は経験的法則である。
 「天体はニュートンの重力の法則にしたがう」という法則は次の二つに分解できる。

1. 重力はニュートンの法則から出てくる。
2. 重力は天体に作用する唯一の力である。

1は原理であり、規約である。だから、それは重力の定義となる。2は経験的法則である。
物理学と幾何学を組み合わせることによってだけ経験によってテストできる予測を行なうことができる。幾何学と物理学を組み合わせて行なった観測が矛盾をもたらす場合、私たちはいつも物理学を代え、ユークリッド幾何学は変更しないようにする。したがって、ユークリッド幾何学の正しさは人間の決定判断の規約的な問題である。これがポアンカレの規約主義(Conventionalism)である。どのように観測結果を解釈するかにはいつも選択の余地がある。そこで、私たちはいつも幾何学が正しいように選択する。それはなぜなのか。ポアンカレによれば、非ユークリッド幾何学を採用せずに物理学を変える方が私たちの信念の全システムをより単純に保つことができるからである。ポアンカレの規約主義はカントの数学的真理についての説明とは別の説明を与えてくれる。カント、ポアンカレ両者にとって、数学は帰納的推論に基づいているのではなく、経験的に反駁される対象ではなかった。