変化の表現形式(5)

3帰納的な推論-仮説の正当化
[ベーコンの試み]
 ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)が主張する内容の大半は否定的なもので、帰納的な判断をする際に陥ってはならない誤りをどのように避けるかにあり、積極的に新しいタイプの判断を構成するものではない。彼は演繹論理での誤謬に対応するような帰納的推論での誤謬を精神の偶像(イドラ)と呼び、下の表のように四つに分類した。

部族の偶像 人間の種の限界に由来し、知覚は人間に相対的である。
洞窟の偶像 個人の性格、好き嫌いという心理的なものに左右される。
市場の偶像 使う言語の誤用によって混乱が生み出される。
劇場の偶像 権威の乱用、悪用によって混乱が生み出される。

 では、どのように自然世界についての知識を獲得するかに関するベーコンの積極的な主張は何か。彼の方法は表にある最初の三つの偶像をもたずに、客観的な観察を行なうことからスタートする。その考えは、特定の事柄に関する多くの情報を集め、それらから段階的に一般的な結論を得ることによって真理に到達しようというものである。この過程を彼は自然的、実験的歴史の作成と呼んでいる。実験は単純な観察では制限されているものを拡大してくれる。観察の条件をさまざまにコントロールすることによって、「…ならば、何が起きるか」と問うことを可能にしてくれる。
 実験は反復できることが想定されている。だから、誰かが行なった実験を別の人が行なうことができる。また、科学者は実験結果が観測者の知覚によって左右されないように、測定装置によって記録することを好む。ベーコンは科学的なデータから信頼できないものを取り去るために測定装置の役割を強調した。実験は現在では科学にとって必須のものと考えられているが、科学革命以前では錬金術で用いられたくらいで、アリストテレスの方法論の中でもほとんど何の役割ももっていなかった。
 自然に起こる現象例を集め、実験を工夫することによって事例を集めた後に私たちが行なうことは、さまざまな種類の表にデータを入れることである。この過程をベーコン自身の例である熱について例示してみよう。彼はまず熱をもつもののリストを、次に熱のないもののリストを挙げる。前者には太陽が、後者には満月がある。帰納法は三段論法と違って、諸例から直接に結論を導き出す。小前提の代わりを果たすのが肯定的、否定的な例の違いである。最後に程度あるいは比較のリストが挙げられる。温度の違いはここに入る。
 作成されたリストに基づいて帰納がなされ、個々の例から一般的な主張がなされることになる。このような純粋に機械的な手続きを使ったベーコンの帰納法による経験的知識の獲得方法は次の二つの事柄からなっている。

観察
帰納法

観察によって個別的な言明が得られ、そこから帰納によって普遍的な言明が得られる。この一般言明が科学法則の一般的な表現形式となっている。
帰納法帰納主義の問題]
 では、一般言明の正当化、つまり、どのようにして個別的な言明から一般言明が得られることを保証できるのか。これに答える一つが帰納主義(Inductivism)である。素朴な帰納主義によれば、

 Xについての多くの観察がさまざまな状況のもとで行われ、すべてのXがYという性質をもつことがわかり、「すべてのXはYである」という一般化に反するどんな例も見出されなければ、観察言明の集まりから一般言明を推論することができる、

と主張される。
帰納主義を科学の方法として評価するために次の二つの問いを区別する必要がある。

(1) 帰納主義は科学史の中で実際に科学者によって使われてきた方法なのか。
(2) 帰納主義を使ったなら、知識を生み出せるだろうか。

最初の問いは経験的な研究が必要で、多くの歴史的資料が必要となろう。ここではまず(2)の問いを考えてみよう。
[ヒュームの経験論]
 ヒューム(David Hume, 1711-1776)は命題を二つのタイプに分ける。一つは観念の関係に関するもの、他は事実に関するものである。観念の関係に関する真なる命題はすべて演繹的に証明できる。というのも、その否定が矛盾を含意するからである。だが、事実に関する命題は感覚からしか導出できない。というのも、そこに含まれる観念は論理的に無関係で、そのため演繹的に証明できないからである。ヒュームは他の経験論者(ロック、バークリー)と同じように、生得的な観念はなく、世界についての私たちの知識は感覚的な知覚によって獲得され、正当化されると考えたので、事実に関するアプリオリな知識を否定した。事実と観念の関係というヒュームの区別はカントの総合的-分析的という区別に対応している。
 ヒュームは過去や現在の経験を越えて進行する推理が原因や結果に基づいていると考えた。私たちは日常の現象を原因や結果の系列として、また太陽や月の変化は周期的な現象として理解している。論理的な関係のない二つの観念が原因や結果として結合されることで事実が経験されている。そして、私たちは経験を通じてのみ特定の因果関係を見出すことができる。それゆえ、私たちの因果的な経験を分析することによって自然を理解することができる。この分析から、ヒュームは原因と結果についての私たちの知識は過去の経験からの一般化の帰結であると考える。タイプAの出来事が原因で、結果としてタイプBの出来事が起こるということについての彼の分析結果は以下のようにまとめることができる。

タイプAの出来事はタイプBの出来事に時間的に先行する。
私たちの経験の中ではタイプAの出来事はタイプBの出来事に常に結びついている。
タイプAの出来事はタイプBの出来事と時間的、空間的に隣接している。
タイプAの出来事はタイプBの出来事がその後に起こるだろうという期待をもたらす。

 これらがヒュームの因果性の分析であるが、これで因果的関係は表現し尽くされているのだろうか。ボールAがボールBに衝突したとき、私たちはAがBを動かし、Aが衝突したのでBは動かなければならなかったと考え、そこからAの動きとBの動きの間には必然的な結びつきがあったと考えるのではないか。しかし、ヒュームによれば、私たちはこの必然的な結びつきを理解できない。この主張の根拠は彼の経験論にある。私たちはAの動きやBの動きを経験できるが、それら動きの間にある必然的な結びつきは経験しない。それゆえ、自然に必然的な結びつきがあると信じる何の理由もない。私たちが見るものすべては隣接する出来事でしかない。出来事の間の関係を見ることはない。しかし、隣接する出来事をいつも見ていると、それが未来にも引き続いて起こり、結びつきを期待する習慣がつくられていく。したがって、因果性は習慣によってつくられた心理的な傾向性に過ぎないことになる。
帰納法は正当化できるか]
 「全てのカラスは黒い」ことを結論するには飛躍があると述べたが、どのような飛躍なのか。帰納的推論は観察されたものから観察されていないものへの推論である。ここには過去の観察から未来へ、部分的な観察から全体へという二つの場合が含まれている。次の論証は演繹的ではないが、十分信頼できると考えられている。

私は多くのエメラルドを見てきたが、それらはみな緑色だった。
よって、エメラルドはみな緑色である。

私は多くのエメラルドを見てきたが、それらはみな緑色だった。
よって、次に私が見るエメラルドも緑色である。

しかし、ヒュームによれば、このような確信は合理的に正当化できない。予測や一般化によって得られる信念は合理的に正当化できず、常識的な確信は私たちの習慣にすぎない。私たちはこの習慣を合理的に正当化する推論を知らない。これがヒュームの主張である。
 ヒュームは帰納的推論の結論を得るには新たな前提が必要であると考える。彼が考えた原理は自然の一様性原理(Principle of the Uniformity of Nature (PUN))である。彼によれば、帰納法を使った推論はみなこの原理を仮定しなければならない。では、この原理は正しいだろうか?

(1) すべての帰納的推論はその前提としてPUN を必要とする。
(2) 帰納的推論の結論が前提から合理的に正当化されるならば、それら前提も合理的に正当化されていなければならない。
(3) したがって、帰納的推論の結論が正当化されるなら、PUNに対する合理的な正当化がなければならない。
(4) PUNが合理的に正当化されるなら、そのための推論は帰納的推論か演繹的推論でなければならない。
(5) PUNに対する帰納的推論はない。というのも、そのような推論はみな循環するからである。
(6) PUNに対する演繹的推論もない。というのも、PUNはアプリオリに真ではなく、私たちの観察から演繹的に得られるのでもないからである。
(7) したがって、PUNは合理的に正当化されない。
それゆえ、予測や一般化の形をした信念は合理的に正当化されない

このヒュームの懐疑論は自然科学も習慣的なものに過ぎないことを帰結する。自然科学は経験科学であり、経験科学は経験的知識を追求する。だが、その正当化はできなく、習慣的な恒常性しかない。この懐疑論にどのように対処したらよいのか。

(問)自然科学が習慣に過ぎないことはどうして自然科学にとって不都合なのか。

 確率は信念の真であることの度合であるという主観的解釈を使って経験的な信念を考え、その合理的な正当化が図れないのだろうか。真と偽の間に度合をもった信念を考えれば、不確かな信念についての合理的な扱いが可能であろう。これがベイズ的な解決の発想である。条件付きの基礎付け主義が自然科学で成功し、その成果は無条件の基礎付け主義より遥かに大きいが、ベイズ的な解決も条件付きの信念の正当化を目指している。
[確率・統計的推論]
 ベイズ(Thomas Bayes, 1702-1761)はヒュームと同時代に活躍したが、生前ほとんど何も発表しなかった。1763年、彼の “Essay towards Solving a Problem in the Doctrine of Chances” がプライス(Richard Price)によって、ヒュームの懐疑論への解答として紹介された。ヒュームによれば「太陽は明日も昇る」は正当化できない。私たちが経験する昼と夜は自然という壷からボールを取り出すようなもので、夜の次に昼がくれば赤のボール、夜が続くなら白のボールというように、赤と白のボールからなる二項分布と考えられる。プライスはこれがヒュームに対する答えであると考えた。最初に太陽が昇るのを見て、それを10日も繰り返せば、それだけで太陽が明日も昇る確率は94%であり、実際私たちは10日以上太陽を見続けている。したがって、ある程度長く観察すれば、100%に収束することになる。
 残念ながら、プライスの考えは発表当時大きな影響を与えることができなかった。それが復活するのは20世紀に入ってからであり、ラムジー(Frank Ramsey, 1903-1930)、ド・フィネッティ(Bruno de Finetti, 1906-1985) によってベイズの考えが取り込まれ、統計学の一分野にまで成長することになる。
 ヒュームの懐疑では経験についての言明は疑われず、そのような言明の一般化に対して疑いがもたれた。ベイズの立場はヒュームと同じであり、それゆえ、経験的な信念を更新する際、そこに登場する信念は真か偽のいずれかであった。P(A|B) をP(A) に更新できるのはP(B) = 1と判明した場合であった。この再定式化は一定の条件のもとでではあるが、見事にヒュームの懐疑に対する解答になっている。しかし、ベイズ的な扱いにも様々な問題があり、それらを巡って現在でも活発な議論が続いている。