変化の表現形式-科学での推論(1)

 ギリシャの哲学は総じて演繹的推論を中心にした形而上学的な理論から成立している。また、ガリレオニュートン、そしてダーウィンによる新しい経験科学が実験や観察を重視し、数学的な表現を積極的に取り入れた点も良く指摘される。そして、推論、実験・観察、数学の三つの要素が科学の成果を産み出し、科学を信頼できるものにしてきた。では、これら三つの要素は最初から一緒に考えられ、使われた訳ではなかった。なぜそうでなかったかは科学史の大きな謎である。
 ここでは科学の形式的な側面に焦点を当て、変化する世界を記述・説明するための装置として不変的な言語、論理、理論等を考え、如何に変化するものを不変的なものによって適切に表現できるか探ってみよう。扱われる項目は以下のようなものだが、いずれも不変的な規則、仕組み、方法をもっており、それらは変化を正しく表現するための装置として科学研究の中で使われ、主に科学方法論の中で議論されてきた。形式的な事柄の議論は往々にして退屈になるが、そうならないように具体的に叙述したい。

仮説演繹的方法
帰納法
アブダクション
科学的説明
テスト可能性と反証可能性
パラダイム

1科学についての常識的な分析
 ここでは現在科学についてほとんど常識として信じられている事柄を列挙してみよう。以下の話の内容が科学についてのおよその常識だと考えてよいだろう。読者は話のすべてにそのまま納得しないでもらいたい。中には疑念を与える部分も含まれている。それらは(問)で確認するので、自ら考えてもらいたい。
アリストテレスの科学]
 アリストテレスは最初の科学者と言われるが、彼は、例えば、物体の落下速度は重さに比例すると考えていた。そして、それは長い間多くの人にそのまま信じられてきた。1本の鉛筆とそれよりはるかに重い鉄の玉を高い塔から落としたとき、二つはどのように落下するのか。今の私たちは二つが同時に地上に到達すると教えられている。では、アリストテレスはどうしてこのようなミスをしてしまったのか。彼は実際に自分で確かめなかったのだろうか。
 アリストテレスの時代の科学的推論と仮説とそのテストという近代科学の方法とを混同してはならない。アリストテレスにとっては、証明は論理的な枠組の中でアイデアの妥当性を決定するために使われるものだった。『分析論』の前書、後書で彼は科学的知識を得るにはどのような種類の前提が必要で、論証が妥当であるためにはどのような形式的条件が必要かを明らかにしようとした。自明な公理に基づく演繹的なシステムとしての科学というアリストテレスの理想は科学の思考に大きな影響を与えた。彼がまず関心をもったのは科学的命題を論証することだった。彼は一般的な定言命題だけを科学的と考えたから、彼のつくった理論は論理的に妥当な論証のクラス、つまり、定言三段論法にだけ適用される。『分析論後書』によれば、科学の究極的な前提や原理は必然的な真理である。これら真理についての私たちの知識は経験に基づいているが、真理自体は経験的な事柄ではない。これら原理からの演繹は何かが真であるという知識だけでなく、なぜそれが真であるかという理由も与えてくれる。アリストテレスにとって、これら二つが科学的知識に対して求められていた。
*命題(proposition)、言明(statement)、文(sentence)という三つの語彙がこれからよく登場するが、人が発話したものが言明、それを書き記すと文、言明や文の内容が命題と考えておくとよいだろう。

(問)上の下線部の中で、「真である理由も与えてくれる」のはどのような理由からかを説明せよ。

 アリストテレスの述べる物理学の内容は誤りが多いが、その理由は彼が経験的ではなく、演繹的な追求方法に頼り過ぎたからだと思われる。現在私たちは自然の研究に実験や観察が不可欠だということを知っている。しかし、アリストテレスはそれを徹底しなかった。(なぜか。)実際、経験的な事実に基づく帰納的方法はベーコンが登場するまで注目されることはなかったのである。
ユークリッドの演繹的方法]
 幾何学ユークリッドによって形式化、体系化されたが、その方法、表現形式、内容は現在まで受け継がれている。その方法は演繹的方法と呼ばれている。ギリシャ人はユークリッドの研究スタイルが強力かつ有効であることをよく知っていた。
 演繹的な追求の手順は次のようになっている。最初に、自明で、確実な無定義語が仮定される。ユークリッドの場合、それらは点、線といった語だった。定義はできないが、それらが何かは誰にも明らかである。無定義語が認められると、それらを使って別の語の定義ができることになる。例えば、三角形は点と線によって正確に定義される。
 次に、無定義語や定義語を含んだ明らかに真なる言明が取り上げられ、それらは公理あるいは仮説と呼ばれることになる。ユークリッド幾何学の公理を5つ挙げている。ユークリッドの公理的方法では、公理、定義、無定義語を論理規則を使って組み合わせ、演繹的に他の言明を証明する。証明される言明は定理と呼ばれ、幾何学の具体的な内容を構成することになる。
[歴史的展開]
 では、アリストテレスの誤りはどのように正されていったのか。1600年頃、ガリレオ、ベーコンらによってまず明らかにされたのは、アリストテレスの演繹的方法に論理的な誤りはないことだった。問題は数学で見事な成果をおさめた演繹的方法が自然の科学的研究にはうまく適用できない点にあった。演繹的方法を使うには公理からスタートしなければならない。そして、公理を使って自然についての論理的なシステムをつくることになる。公理が真ならば、演繹されるすべての言明は真となる。しかし、ガリレオやベーコンは世界に関する単純で真なる言明を決定することが簡単ではないことをよく知っていた。実際、そのような言明を見出すことが科学の目標であり、決して科学の出発点ではないことが明らかになった。17世紀以来、帰納的方法が自然の探求で成功をおさめるようになった。そして、帰納的方法はしばしば科学的方法そのものとさえ考えられるようになった。
帰納的方法と演繹的方法]
 帰納的方法はいわば演繹的方法の逆転であると言われる。演繹的方法では僅かな数の真なる言明(公理)からスタートし、それらから論理的に導出される多くの真なる言明を証明することがゴールとなる。帰納的方法は自然についての多くの観察データからスタートし、自然の仕組みについての僅かな、しかし強力な言明(法則や理論)を見出すことがゴールとなる。
 演繹的方法が頼れるのは論理である。ある言明がシステムの公理から論理的に導出されるなら、それは真でなければならない。帰納的方法では自然の観察こそ頼れるものである。ある言明が自然で起こる現象に合わなければ、その言明は修正されるか、廃棄されなければならない。
[科学は完全に帰納的か]
 数学は演繹的だが、数学者が実際に考える過程は決して演繹的ではない。同じように、科学は帰納的だが、科学が実行される過程は演繹的であることが可能である。特に、物理学者は数学をよく使う。理論物理学者は数学的モデルとして演繹的に自然を捉える。数学者と物理学者の本質的違いは、物理学者が数学を推理のための道具として使う点にある。数学的モデルの成功はその結果が自然の観察結果と合致するかどうかに懸かっている。

(問)科学が帰納的かどうかを考え、科学が帰納的でないとしたら、科学はどのようなものか想像してみよ。(アリストテレス、後述のポパーの科学についての考えを参照。)

[観察]
 科学は自然の観察から始まる。だから、ガリレオは落体の研究を最初に一般的言明をつくることによってではなく、実験をすることによって始めた。だが、観察は人間によってなされ、その人間の感覚はよく誤る。(錯視は簡単に感覚を欺くことができる例である。)だから、人間は簡単に欺かれる。観察レベル以外にも人を誤らせるものがある。それは時には知識、常識、権威だったり、情報の伝達ミスだったりする。
[科学的観察の反復可能性]
 では、誤りやすい観察が正しいことはどのように保証できるのか。科学者が自分の観察が正しいと信じれば、それを他人に話すだろう。それを聞いた他の科学者が同じ観察をし、同じ結果を得れば、その観察が正しいことにもっと信頼がよせられるだろう。これが科学的観察は反復可能でなければならないことの理由である。反復できなければ、観察が正しいかどうかは確認できない。反復できない観察でも、それは正しいかも知れない。だが、反復できないために確かめる術はない。新しい観察がなされ、それが知られるとしてみよう。多くの人がそれを観察すればするほど、その観察の正しいことが信頼を得ていくだろう。観察が多くの人によって験証されると、それは事実として承認されることになる。
[観察の重要性]
 科学における観察(や実験)の重要さは言うまでもない。科学の言明や考えは自然の観察によって何度も検証されなければならない。アイデアや信念が観察結果と合わなければ、変更されるのはアイデアや信念の方である。常識や権威によって観察結果と合わないアイデアや信念を救うことはできない。
[周到な観察でも誤ることがあるか]
 能力ある観察者でも誤る場合がある。そのような例を考えてみよう。1491年には地球が偏平であることは事実だった。科学者、船乗り、地図の作成者いずれもが地球は偏平だと言っていた。同じ頃、地球が太陽の周りを回っていることは現在と同じように事実だった。このような例は数限りなくある。かつて病気は「悪い血」が原因で起こるというのが科学的な事実だった。「地球が偏平」も「悪い血が病気の原因」も当時の人が共通にもっていた信念ではあったが、現在の私たちから見れば、それは誤った信念である。

(問)上の二つの事実が同じ意味かどうか検討せよ。

 ところで、事実は私たちが確実に真だと知るものではないのか。それが事実の意味ではなかったのか。むろん、それが常識的な事実の意味ではあるが、このことを考え直してみよう。あることが確実に真であることを私たちはどのように知ることができるのか。それを知るための情報を自然は簡単に与えてはくれない。私たちにできることは、最善の観察をし、その内容を験証することだけである。事実は十分に験証された観察である。この定義が曖昧でもこれ以上の特徴付けは科学だけではできない。(どうしてか。)
[結論は観察に基づく決定である]
 実験室のテーブルに置かれたビーカーに液体が入っているとしてみよう。何も調べずに、その液体が水だと一挙に結論することは危険で、恐らく誤っているだろう。水のように透明な液体はたくさんある。「それは透明な液体である」は観察記録であるが、「それは水である」は観察記録ではない。透明な液体に物理・化学的なテストをして、その結果に基づいてそれが水であると結論することができる。この場合、「それは水である」という言明は結論であり、観察記録ではない。「すべての牛は4足である」も観察記録ではない。というのも、すべての牛を観察できる人はいないからである。この言明は多くの牛を観察し、さらに牛についての知識を使ってなされた判断であるという意味で、推論の結論である。結論、観察、事実を区別することはトリックのように見えるかもしれないが、「すべて」や「いつも」を含む言明は観察や事実そのものではなく、推論による結論である。そして、結論も誤り得る。「すべての牛は4足である」という言明は厳密に真とは言えない。事故で足を失った牛や突然変異の牛は実際に存在するからである。

(問)観察の記録と推論の結論の違いを説明せよ。また、二つは厳密に区別できるだろうか。